國司元相とは? わかりやすく解説

国司元相

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/09 15:01 UTC 版)

 
国司元相
国司右京亮元相
毛利博物館「毛利元就座備図」より)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正12年(1515年[注釈 1]
死没 天正19年12月28日[1]1592年2月11日
別名 通称:助六[1]
官位 右京亮[1]飛騨守[1]
主君 毛利元就隆元輝元
氏族 高階姓高氏庶流国司氏
父母 父:国司有相[1]、母:不詳[1]
正室:渡辺勝の娘[1]
継室:桂広澄の娘[1]
元武[1]元蔵[1]元貞[1]
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国司 元相(くにし もとすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将毛利氏の家臣で、五奉行の一人。

家系

国司氏の祖は足利尊氏の重臣・高師泰の子、高師武である。師武は観応の擾乱高氏が凋落した際、師泰と縁のある毛利氏を頼って安芸国に下向して高田郡国司荘[注釈 2]に土着し、「国司」を名字とした。

生涯

永正12年(1515年)、毛利氏家臣である国司有相の子として生まれる[注釈 1]

元相は毛利元就の嫡男である毛利隆元の傅役を務めて隆元から深い信任を得ており、天文7年(1538年8月7日に隆元から「元」の偏諱を与えられている[4]

天文9年(1540年)、出雲国尼子詮久(後の尼子晴久)が大軍を率いて毛利領に侵攻し、吉田郡山城を包囲、攻撃してきた(吉田郡山城の戦い)。この戦いの局地戦である青山土取場の戦いで、元相は渡辺通らとともに奮戦し、尼子方を撃破する勲功を挙げた。

天文11年(1542年5月2日に父・有相が死去すると家督を相続。同年、周防国を本拠とする大内義隆は、吉田郡山城攻略の失敗により勢力を著しく減らした尼子氏を一挙に滅ぼすべく、尼子領へ侵攻すると毛利氏もこれに従った(第一次月山富田城の戦い)。大内勢は尼子勢を撃破し、一時は月山富田城の包囲に成功したものの、翌年、尼子方の反撃によって敗走。元相も危険な撤退戦を行い、帰還を果たすものの戦傷を負っている。

天文19年(1550年7月12日から7月13日にかけて元就によって安芸井上氏が粛清された直後の7月20日に毛利氏家臣団238名が連署して毛利氏への忠誠等を誓った起請文においては、13番目に「國司右京亮元相」と署名している[注釈 3][5]。また、井上氏粛清後の新たな体制として元就が五奉行制を定めると、元相は赤川元保粟屋元親桂元忠児玉就忠と共にその一人となった。

弘治元年(1555年)の厳島の戦いでも奮戦。

弘治3年(1557年12月2日防長経略が終わった後の毛利氏家臣239名が名を連ねて軍勢狼藉や陣払の禁止を誓約した連署起請文において、12番目に「國司右京亮」と署名する[6]

永禄3年(1560年)には正親町天皇の即位料を調進する使者として上洛。室町幕府の将軍・足利義輝にも面会し、槍の鈴の免許を与えられた。翌、永禄4年(1561年)の石見国松山城での戦いでは、児玉就忠と共に一番に城中に攻め入る功を挙げている。

元相は永禄10年(1567年)頃に嫡男の国司元武に奉行職を引き継いでいるが、その後も奉行人としての扱いを受けていたようで、元亀3年(1572年)の毛利氏家中の掟(毛利氏掟)の制定に関して、奉行人の一人としてこれを確認している。

天正19年(1591年12月28日に死去。享年は77[注釈 1]

脚注

注釈

  1. ^ a b c 後に作成された国司氏の系図類では元相を明応元年(1492年)生まれの享年100としているが、山口県文書館所蔵文書の「贈村山家返章」に収められている元相の書状[2][3]や、日高山神社の棟札において自らと妻の生年の干支を「乙亥」と記しているため、これに従うと永正12年(1515年)生まれとなる。同様に日高山神社の棟札で嫡男の元武の生年の干支は「戊戌」と記されており、天文7年(1538年)生まれとなる。
  2. ^ 現在の広島県安芸高田市吉田町国司。
  3. ^ この起請文においても記している36人の重臣は署名順に、福原貞俊志道元保坂広昌(元貞)、門田元久、秋広就正、和智元俊、福原就房、桂元忠桂就延兼重元宣渡辺長赤川就秀国司元相、粟屋元真、粟屋元親粟屋元秀赤川元秀、飯田元泰、粟屋元宗、井上元在(元光)赤川元保光永元方、長屋千太郎、福原元正、志道元親、桂元親、坂保良(元祐)、志道元信、志道通良(口羽通良)桂元澄敷名元範、南方元次、内藤元種、秋山元継、三田元親、井原元造

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k 田村哲夫編修 1980, p. 116.
  2. ^ 山口県文書館蔵「贈村山家返章」年不詳2月1日付け、村山殿宛て国司右京亮元相書状。
  3. ^ 三原市史 第6巻 資料編3 1986, pp. 18–19.
  4. ^ 『閥閲録』巻15「国司隼人」第17号、天文7年8月7日付 国司元相宛て毛利隆元一字書出状。
  5. ^ 『毛利家文書』第401号、天文19年(1550年)7月20日付、福原貞俊以下家臣連署起請文。
  6. ^ 『毛利家文書』第402号、弘治3年(1557年)12月2日付、福原貞俊以下家臣連署起請文。

参考文献

関連作品

関連項目

先代
国司有相
安芸国司氏歴代当主
1542年 - 1567年
次代
国司元武

国司元相(くにし もとすけ)

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毛利元就 誓いの三矢」の記事における「国司元相(くにし もとすけ)」の解説

毛利家臣。弓兵隊を率いる。(弓兵

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