国府の推定と発掘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 16:29 UTC 版)
国府は、室町時代には完全に消滅し、所在不明となった所が多かった。和名類聚抄が国府があった郡を伝えるが、それ以上に絞り込むのは難しかった。1960年代までの研究では、「国府(こう)」、「国分寺」、「総社」、あるいはそれと似た地名が探索され、他の状況証拠と併せて様々に位置が推理された。しかし推定地は通常複数唱えられ、決め手を欠いた。国府の具体像に関する知識は皆無に近かった。 1964年に近江国府が発掘されてから、国府跡の遺跡が次々と発掘されるようになり、状況は劇的に変わった。併せて郡衙、国分寺等の遺跡も見つかり、これらと照らし合わせて国府に共通する特徴が浮かび上がってきた。奈良時代から平安時代前半の国府は、区画と正殿・脇殿等で構成される国庁(政庁)の存在が他の施設にはない特徴で、これが国府の中心施設であった。したがって、国庁を発見した時点で国府位置確定とみなされている。 発掘が始まった当初、国府は平城京や平安京のような中央の都城の縮小版と考えられていた。方形の外郭線を持つ都市が国府で、その中心に国衙という役所群、更にその要に国庁があるという三重構造が想定された。発掘が進むと、国府に明確な外郭線が存在しないこと、都市域は付け足し程度で官衙域を包み込むほどの広がりを持たないことなどが判明した。しかし、計画的な道路の敷設は認められる。下野国国庁の南正面に南北道路が、伊勢国では国庁北側の一部に方格地割りが、大宰府では10世紀の方格地割りが認められる。 2007年現在、国府位置が判明した国は多いが、なお不明の国もある。国府の発掘は面積的に一つの都市を掘り出すのに等しいため、位置が確定しても全貌を完全に解明したことにはならない。各地で国府の発掘調査が続いている。
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