国務長官職
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 22:10 UTC 版)
1993年に退役後、自伝「マイ・アメリカン・ジャーニー」を出版した。1996年アメリカ合衆国大統領選挙に向けての世論調査では幅広い層からの圧倒的な支持を示したが出馬しなかった。選挙戦における激しい中傷合戦に巻き込まれたくないと妻が懸念したからとも、「黒人が大統領になったら暗殺される」とする妻の反対があったからとも言われる。 2000年アメリカ合衆国大統領選挙ではブッシュ陣営の外交問題アドバイザーを務めた。ブッシュの当選後、アフリカ系アメリカ人初の国務長官に任命された(上院では全会一致で承認)。同政権では、息子のマイク・パウエルが1997年11月から2005年1月までの間連邦通信委員会 (FCC) 委員長を務めた。国務副長官に任命されたレーガン政権からの盟友リチャード・アーミテージと共にブッシュ政権での穏健派を形成していた。2004年11月に国務長官辞任の意思を表明し、2005年に職を辞した。中道派で対国連協調路線であったため、有志連合指向の右派が主導する政権内での孤立が原因と考えられている。 国務長官在任時、国際連合安全保障理事会で「イラクが大量破壊兵器を開発している証拠」を列挙した。しかしCBSの60 Minutesなどによると、イラクからドイツに出国した男性エージェント、コードネーム「癖玉(英語版)」が永住権を得るためにドイツの情報機関に話した虚偽の話(例:生物兵器製造中に事故で12名が死亡した)をCIAが事実と誤認したものだった。長官退任後にパウエルはこの発言を間違いだったと認め、自らの著書である「リーダーを目指す人の心得」において「人生最大の汚点」と述べている。
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