問題点と功績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 17:07 UTC 版)
コモンウェルス成立後の2年間、ランプ議会は不景気とスコットランド・アイルランドの侵略の脅威に晒されることとなった。ところがクロムウェルはニューモデル軍を率いて8月からアイルランド侵略を行い、現地の王党派を撃破していった。翌1650年5月にチャールズ1世の遺児チャールズ2世が大陸からスコットランドへ上陸するとクロムウェルは婿のヘンリー・アイアトンにアイルランドを任せてイングランドへ帰国、7月にスコットランドへ遠征し第三次イングランド内戦が勃発、9月3日のダンバーの戦い、翌1651年9月3日のウスターの戦いでスコットランド軍を蹴散らしチャールズ2世を大陸へ亡命させた。1653年までにアイルランドも平定され、クロムウェルと軍は不安の大部分を排除した。 議会内では派閥同士で多くの論争が起こった。共和制を支持する者もいれば何からの形で君主制を維持したいと考える者もいた。イングランドの伝統的な支配階級は、ランプ議会をレジサイドと成り上がり者によってでっち上げられた違法政府だと考えていたが、一方で完全な軍事独裁政府への道を歩んでいる可能性にも気づいていた。ジェントリは軍事費のための重税に不満を募らせており、制約付きの改革(後述)は支配階級の反感を呼び、改革派にも不満が残る内容であった。 不人気にもかかわらず、ランプ議会は旧体制との橋渡しの役目を果たしてイングランドの情勢を落ち着かせ、史上最大の大変動の後のイングランドを安定させた。1653年には、フランスとスペインがイングランドの新政府を認知するに至った。
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