問註所氏とは? わかりやすく解説

問註所氏

(問注所氏 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/22 08:09 UTC 版)

問註所氏
丸の内に違い鷹の羽
抱き杏葉
本姓 三善氏
家祖 問註所康行
種別 武家
士族
出身地 筑後国生葉郡
主な根拠地 筑後国生葉郡
支流、分家 町野氏(武家)
凡例 / Category:日本の氏族

問註所氏(もんちゅうしょし/もんぢゅうじょし)は、筑後国生葉郡国人領主で筑後十五城の一つ。大友氏被官で、その没落後は小早川氏、次いで柳河藩藩主立花氏に仕官。柳河藩士時代に成立した分家に町野氏がいる。

成立から安土桃山時代まで

公卿補任』に「三善清行淡路従五位下氏吉の三男。母佐伯氏」とある三善清行の後裔の三善康信鎌倉幕府問註所執事となり筑後生葉郡に所領をえる。子の康俊が大友能直の後見として九州に同行する。

その孫の康行が正和2年(1313年)鎌倉から九州に下向し土着、筑後国生葉郡を領し、問註所康行と名乗ったのがはじまりである。

康行の後の氏康から政康の代は室町幕府奉公衆として足利将軍家から偏諱を賜っていたが、政康の子・綱康の代からは筑後豊後守護の大友氏被官として活躍、一時期を除いては代々大友氏当主からの偏諱を賜るようになる。問註所統景の代で大友氏没落により小早川隆景に仕官したという。

歴代当主

成立まで

三善康信-康俊-康持-康永-問註所康行

康行以降(< より右は偏諱を与えた人物)

江戸時代

小早川秀秋の転封後に小早川氏家臣である問註所政連関ヶ原の戦い前に立花宗茂に仕官。その後、宗茂が改易されて加藤清正の食客になるとこれに随行。慶長7年(1602年)に宗茂が肥後国を出ると、そのまま加藤家の家臣となる。元和6年(1620年)に宗茂が柳河藩に再封されると再び宗茂に仕えて柳河藩士となる。

政連以降は

康辰–康豊=康良(弟)–康敬=康行(矢島助兵衛次男)–(中略)–康寛–(中略)–康重

と続く。

寛永6年(1629年)の『宗茂公御代諸士高附帳』では、矢島石見守組に「五百石・物頭・問註所三郎兵衛」と「同(百五十石)・部屋住に而・問註所小兵衛」とある。また同史料では問註所三郎兵衛は筑後長岩城主で客分であり、三郎兵衛の母と宗茂とが親戚であったとしている[注釈 1]

有馬一揆旧記』に矢島主水正組に「拾六人・馬一疋・問注所三右衛門」、万治3年(1660年)の 『忠茂公御代之分限帳』の矢島主水正組に「同(高)350石内・御蔵村・問注所采女之助」、延宝9年(1681年)の『延宝九酉年知行取無足扶持方共』では物頭組に「高350石・問注所三右衛門」、正徳元年(1711年)の『正徳元年侍帳』の物頭に「三百五十石・問注所三右衛門」とある。

その後も柳河藩士として続き、幕末には柳河藩中老で日置流弓術山鹿流兵法長沼流砲術師範でもある問註所康重(参太)がいた。

脚注

  1. ^ ちなみに親族である旨の説明の原文は「立斎様御従弟違、三郎兵衛母ト立斎様御實方御従弟也」。
  1. ^ 天正六年戊寅(1578年)3月1日(または11日)卒。戒名:脊梁院殿章窓圭文大禅定門」『筑後国史 中巻』P.312~314、『筑後名鑑 三瀦・八女之巻』P.94~95、浮羽郡人物名鑑 : 郡制廃止記念P.24~26
  2. ^ 問註所安芸守。永祿2年(1559年)または永祿7年(1564年)4月2日(一説は5月2日)または永禄10年(1567年)7月11日、対筑紫惟門筑前御笠郡侍島の戦いで戦死した。戒名:成德院本譽了覺大居士。
    • 筑前国侍島に於て、去る二日合戦のみぎり、親父鑑豊ならびに同名親類被官已下数十人戦死粉骨のおもむき、忠儀比類無く候、就中鑑豊事、連々頼み入り候処、かくの如きの次第、朦気賢察の前に候、併せて御名字の高名、永々忘却有るべからず候、必ず追ってこれを賀すべくの段、猶年寄共に申すべく候、恐々謹言
    卯月(4月)七日(永祿七年) 問註所刑部大輔殿へ(鎮連)『筑後戦国史』P.43~44、『福岡県史資料 第10輯 問註所文書』P.320、 武家家伝 問註所氏 『筑後国史 中巻』P.312~314、『筑後名鑑 三瀦・八女之巻』P.94~95、姓氏家系大辞典 第6巻P.6114、浮羽郡人物名鑑 : 郡制廃止記念P.24~26。
    • 大友義鎮は永禄5年(1562年)に剃髪した以降、文書の署名および花押を「宗麟」と改めている。したがって、本書状の内容に見られる「義鎮」期の署名および花押の様式から判断すると、永禄7年ではなく永禄2年のものとみるのが妥当である。「永禄7年」、「5月2日」、「永禄10年(1567年)7月11日」とする説は、問註所家譜・文書・系図・墓碑などの誤記によって生じたものと考えられる。
    • また、「天正六年戊寅(1578年)3月1日(または11日)卒」および「戒名:脊梁院殿章窓圭文大禅定門」は、鑑豊の父・加賀守親照のこと。「天正二年甲戌(1574年)6月8日卒」および「戒名:勝楽寺殿松巖善聴大居士」は、鑑豊の子・刑部少(大)輔入道善聴鎮連のこと。
  3. ^ 問註所刑部少(大)輔、刑部入道善聴。天正二年(1574)6月8日、秋月種実が鎮連の弟・町野鎮次を寝返らせ、城番として左右良山城にいた鎮連を攻撃、不意を討たれた鎮連は防戦かなわず戦死した。戒名:勝楽寺殿松巖善聴大居士。武家家伝 問註所氏『筑後国史 中巻』p.313、『筑後名鑑 三瀦・八女之巻』p.95、日本歴史地名大系 「麻底良城跡」の解説

参考文献





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