商店街の性格
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 21:52 UTC 版)
新京極や西陣京極と異なり、興行街という位置づけではなかったが、寄席・芝居小屋が3館あり、1館は早期に閉館したが、2館は映画館に業態を変更した。1898年(明治31年)には西堀川通丸太町上ルに寄席の紅梅亭(のちの紅梅館)が開館、1908年(明治41年)には東堀川通下長者町東北角に寄席の春日座(のちの堀川中央館)、1920年(大正9年)前後には西堀川通上長者町西南角に寄席の永楽館(のちの常盤館)がそれぞれ開館、紅梅館は1930年(昭和5年)前後に閉館したが、春日座は1926年(昭和元年)前後に映画館化して堀川中央館と改称、永楽館も追って映画館化して常盤館と改称した。堀川中央館も常盤館も、1945年(昭和20年)4月の強制疎開で取り壊されて閉館、いずれも戦後復興しなかった。 これら寄席から転換した2つの映画館のほか、2つの市場があり、いわゆるカフェー、あるいは喫茶店・飲食店が豊富であり、レコード店等もあった。銀行も3行が存在した。 堀川京極の南端にあたる堀川丸太町上ルには、日本初の映画スター尾上松之助の邸宅があり、1926年(大正15年)9月11日に死去した松之助の葬儀(同月16日)のときには、20万人もの群衆が詰めかけたという。松之助の棺は邸宅から運び出され、西陣京極の千本座の前を通り、日活大将軍撮影所に運び込まれた。同葬儀のドキュメンタリー映画は、『尾上松之助葬儀』(1926年)として公開された。『尾上松之助葬儀』の上映用プリントは、現在、東京国立近代美術館フィルムセンターが所蔵している。
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