和泉式部の和歌の源流
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和泉式部は、後に紫式部(『紫式部日記』)に「口に任せたることどもに、必ずをかしき一節の、目にとまる詠み添へ侍り」と言われているため、「天才肌の歌人」というイメージが定着している。しかし、一方で、彼女は先行詩歌から表現や歌材、詠出手法を学んでいた痕跡も窺える。 『正集』の冒頭には春夏秋冬+恋という部立が設けられた「百首歌(実際には欠損が生じ97首)」が見られるように、和泉式部は「曽禰好忠や源重之、源重之女の「百首歌(いわゆる「初期百首」)」を学んでおり、彼らの歌に類似しながらも、詠まれた世界は異なるという彼女の力量を著した歌を『正集』に残している。和泉式部は「百首歌」によって、百首歌人の「先行歌に対し、ある時は歌材やその境地を共有し、ある時は新たな要素を付加して展開させ、ある時は反発してみせる」という作歌手法や、『万葉集」以降の先行歌を徹底的に学ぶ姿勢の影響を受けている。 和泉式部は『後撰和歌集』も学んでおり、天智天皇の「秋の田のかりほのいほの苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ」の歌を基にした「秋の田の庵にふける苫をあらみもりくる露のいやは寝らるる」を詠んでいる。 和泉式部の歌学びは詩歌の世界にも及んでおり、『紫式部日記』に「その方の才ある人、はかない言葉の匂ひも見え侍るめり」とあるように、和泉式部は漢詩文の教養もあり、詩的な世界を下敷きにして作歌してもいる。例えば、「岩躑躅折りもてぞ見る背子が着し紅ぞめの衣に似たれば(正集・十九)」という歌があるが、躑躅は『白氏文集』や『千載佳句』、『和漢朗詠集』などで取り上げられており、漢詩の世界ではポピュラーな景物であった。 この他にも和泉式部は、『万葉集』や『伊勢物語』も学んでいた。『和泉式部続集(続集)』には、ある人から「万葉集しばし(『万葉集』を少しの間お借りしたい)」と申し出があったことが記されている。この時、和泉式部は『万葉集』を所有していなかったが、返答として「かきのもととめず(書き留めていません)」と述べており、「『万葉集』を一旦は手元に置き勉強したこと」、「柿本人麻呂を連想させる返答をしていること」がわかる。『袋草子』には、『伊勢物語』の伝本の中に「泉式部本」があったことが記されている。
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