台湾民主国と台湾平定とは? わかりやすく解説

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台湾民主国と台湾平定(乙未戦争)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:03 UTC 版)

日清戦争」の記事における「台湾民主国と台湾平定(乙未戦争)」の解説

詳細は「台湾民主国」および「乙未戦争」を参照 日本は、5月8日日清講和条約発効後、割譲された台湾近衛師団歩兵連隊砲兵連隊が二箇大隊編成され、他師団より小規模)を派遣した29日近衛第一旅団北部上陸始め6月17日台北台湾総督府始政式が行われた後、19日南進始まった。しかし、流言蜚語などによる武装住民の抵抗激しいため、予定していた近衛第二旅団南部上陸中止し北部制圧後の南進再開作戦変更された。増援部隊として編成され混成第四旅団第二師団所属歩兵第四旅団基幹)と警備用後備部隊到着する中、7月29日、ようやく旧台北管内制圧した8月28日近衛師団中部彰化鹿港まで進出し(ただし病気等で兵員半減)、9月16日台南目指す南進軍が編成された。10月、すでに台湾平定参加していた混成第四旅団を含む第二師団南部分散上陸し10月21日日本軍台南入った11月18日大本営全島平定報告された(参加兵力:二箇師団後備部隊などを含め将校同等官1,519人、下士官兵48,316人の計49,835人、また民間人軍夫26,214人)。軍政から民政移行した翌日1896年明治29年4月1日大本営解散された。 なお犠牲者は、平定し日本側が戦死者164人、マラリア等による病死者4,642人に上った女性子供参加したゲリラ戦などによって抵抗した台湾側が兵士住民およそ1万4千人死亡推測されている。

※この「台湾民主国と台湾平定(乙未戦争)」の解説は、「日清戦争」の解説の一部です。
「台湾民主国と台湾平定(乙未戦争)」を含む「日清戦争」の記事については、「日清戦争」の概要を参照ください。

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