古代日本の服制における深紫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/17 14:24 UTC 版)
日本の服制で深紫が現われるのは、大化3年(647年)制定の七色十三階冠である。これに先立つ推古天皇11年12月5日(604年1月11日)の冠位十二階で、大徳の冠の色を深紫とする説も行なわれているが、それは七色十三階冠からの類推で、格別の証拠はない。服制において紫を深紫と浅紫に分けるのは日本だけで、同時期の隋・唐・新羅などにはない。 七色十三階冠では、大織・小織・大繍・小繍という上位4つの冠位について、深紫の服を用いるよう定めた。服色は大化5年(649年)の冠位十九階、天智天皇3年(664年)の冠位二十六階にも踏襲されたと考えられる。ただ大繍・小繍の冠位名は天智3年にそれぞれ大縫・小縫と変更になった。冠の色は不明である。 天武天皇14年(685年)1月21日に冠位の名を一新した冠位四十八階では、7月21日に正位の朝服を深紫とした。皇族の浄位が着る朱華に次ぎ、臣下では最高である。ただ、天武天皇の時代には全体的に冠位が低く抑えられており、正位の人はいなかった。 持統天皇4年(690年)4月の改訂で朱華がなくなり、黒紫は浄大壱から浄広弐までという皇族の上層に限られた。黒紫は名が異なるだけで深紫と同じ色とされる。太政大臣の高市皇子など、皇子数名に限られた高貴な色である。 大宝元年(701年)制定の大宝令は、親王と、一位の諸王・諸臣の服を黒紫と定めた。この区分は養老令でも踏襲され、ただ名称が深紫に改められた。諸王というのは親王を除く皇族で、親王を一世と数えて四世までの者、諸臣は皇族以外の者である。天皇の白と皇太子の黄丹に次ぐ色で、臣下として望みうる最高の色である。 時代は下るが『延喜式』は染色用の材料を規定している。それによると深紫の綾一匹の原材料は、紫草(ムラサキ)30斤、酢2升、灰2石、薪360斤である。帛や羅を作る場合、他の原材料は同じで酢を1升にした。これに対して浅紫で用いる紫草は5斤で、この差が色の違いとなる。
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