取り調べの開始と関係者に対する追及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:38 UTC 版)
「唐物抜荷事件」の記事における「取り調べの開始と関係者に対する追及」の解説
北国屋敬次郎の下男、松蔵や若狭屋市兵衛の下男、仙蔵ら6名は新潟から江戸に連行され、天保7年8月11日(1836年9月21日)、評定所で取り調べの上、入牢となった。翌日には6名がやはり評定所での取り調べ後に入牢、さらに天保7年9月7日(1836年10月16日)には新潟町の佐藤屋嘉左衛門ら8名が入牢する。取り調べの過程で松蔵、仙蔵は獄死し、佐藤屋嘉左衛門も獄中で重病に罹ったため出牢を許されたもののまもなく死亡した。 事件の関係者についての捜索は新潟や越後ばかりではなく、信濃、越中、上野と広範囲におよび、また捜査と裁判の期間も約4年と長期におよんだ。これは抜荷品が新潟から広範囲に販売されたことによって、係累者が広範囲かつ大勢になったためである。捜査が進む中で天保7年9月以降も数回、抜荷品の密売買、密売買の幇助の容疑で連行、入牢が繰り返された。 越後十日町の薬種商である加賀屋清助にも捜査の手が伸びた。天保7年8月26日(1836年10月6日)付の書簡で、加賀屋と抜荷漢方薬種の取引を行っていた新潟の美濃屋長之助が逮捕されたこと、そして帳簿類も押収されたため、取引先にも捜査の手が伸びるであろうとの情報が加賀屋側にもたらされていた。取り調べの過程で美濃屋長之助は取引相手として加賀屋清助の名前を自白した。天保7年9月1日(1836年10月10日)、関東取締出役は十日町を管轄していた小千谷役所に対して、抜荷の漢方薬種を美濃屋長之助から購入していた容疑で加賀屋清助の御用状(逮捕状)を送付する。 しかし加賀屋側は天保7年9月5日(1836年10月14日)付で、加賀屋清助は前年の天保6年6月に病死しており、まだ子どもたちも幼く、商売のことは全て清助が行っていたため、残された遺族たちは事情が良くわからないとの上申書を関東取締出役に提出し、捜査、逮捕を免れることが出来た。
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