取り調べと公判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 07:10 UTC 版)
1917年3月20日、島倉は女中の殺害犯人等の罪で起訴された。島倉は容易に自白せず、一切を否認したが、取り調べ5日目の朝になって自白し、検察局へ送られてからは罪状全てを認めた。しかし、第2回目の予審の訊問から、自白をすべて取り消す発言をした。 聖書は盗んだのではなく、主任より鍵を預かり、持ち出しを許可されていた。 放火の覚えはまったくない。 井戸から発見された屍体は、自分の家の女中にしては骨格が大きすぎる。 神楽坂署の正力署長は、品川署から屍体が菓子屋の娘であるという書類を引きついでおきながら、これを隠匿したし、自分は検挙の面目を立てるべく、自白を頼まれた。 主任検事乙骨半二、予審判事久保久、裁判長三宅正太郎、弁護人布施辰治・林連・長島鷲太郎のもとで裁判が行われ、布施は島倉無罪論を展開した。裁判に関わった検事の小原直は、被告の島倉が自白を覆し、罪状否認に至ったのは、布施の指導によるものと推定している。 島倉は死して口を開かない人物に話題を持ってゆき、調べを厄介なものにしたが、屍体発掘の際、10数本の陰毛が女中のものであること、繻子の丸帯の切れ端が彼女の寄宿していた先の老婦人の持っていた繻子とメリンスの腹合せの帯であることが立証された。さらに女中の写真によって、身長が測定され、屍体の骨格と一致することも証拠立てられた。しかし、島倉は居丈高になり、すべてを否定した。公判廷における彼は狂える悪鬼の如くと形容されており、三宅裁判長は後に「人間はある場合、怒ると獣になる」と述懐している。
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