厚狭町への編入とは? わかりやすく解説

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厚狭町への編入

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 09:34 UTC 版)

出合村」の記事における「厚狭町への編入」の解説

1926年7月郡制廃止に伴い、国は財政基盤強化などを目的として小規模町村合併奨励。これを受けて山口県人口2,500人以下の町に対して合併検討し5,000人以上とするように指示し、この流れ出合村厚狭町合併案が作成された。 1926年6月厚狭郡長が合併案を両町説明した1925年時点人口出合村が2,174人、厚狭町が8,805人であり「厚狭町出合村吸収合併する」案となった。これを受けて厚狭町議会では異議もなく同年7月同意されたが、出合村では協議会開催厚狭町側との会合など慎重な対処進めたその結果時勢上、合併やむなし」として同様の結論至り同年8月には合併後具体的な予算案作成されるまでに至った。しかし、同年9月9日開催され区長集会では合併反対または消極的な意見多く出された。 1927年5月出合村議会において同年度末(1928年3月まで)の合併満場一致可決される同年8月には区長および有志の会合でも了承されたが、区長会では賛否分かれたことから、村長合併1年延期決断した1928年7月になり出合村西部区長10名の連署による合併無期限延期陳情書提出された。しかし村議会全会一致延期拒否したことから、合併反対派合併反対運動組織的に進めていった。村民集会決議当局提出山口県庁への陳情県会議員代議士への合併中止協力依頼始まり同年9月行われた警察官駐在所の上棟式への参列拒否同年11月には出合小学校児童345名のうち反対派家庭165名に同盟休校をさせた。1929年1月には当局とは別に反対派独自で御大典奉祝行事即位の礼#昭和の即位の礼参照)を開催したこうした反対運動の中、出合村議会1928年8月同年度末の合併議決し厚狭町議会においても合併議案同月可決1929年4月1日出合村厚狭町編入された。なお、厚狭町1956年9月埴生町合併し山陽町となり、2005年3月には小野田市合併し山陽小野田市一部となった

※この「厚狭町への編入」の解説は、「出合村」の解説の一部です。
「厚狭町への編入」を含む「出合村」の記事については、「出合村」の概要を参照ください。

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