危機後の米ソ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 02:53 UTC 版)
ニクソン政権の時代に国家安全保障担当特別補佐官そして国務長官を務めたヘンリー・キッシンジャーは著書「外交」の中で、「フルシチョフは自ら作り出した絡み合った罠に自らはまり込んでしまった。彼はソ連のハト派をより対立的な路線に引っ張っていくには弱すぎ、タカ派に妥協するには立場に不安があり、時間稼ぎするしか方法はなく、キューバにミサイルを置くという絶望的な賭けに打って出たのである。」として「冷戦の転換点となった。」と述べている。 キューバ危機は、1963年の米ソ関係の変化につながっていった。核戦争の危機に直面して恐怖を味わったことで、フルシチョフは対米関係の改善を強く求めるようになった。しかし、ソ連内部でフルシチョフの外交上の不手際に対する批判が強まり、1964年10月14日に彼は失脚した。キューバ危機での譲歩がその大きな要因であった。 一方、アメリカではこのキューバ危機で核戦争一歩手前の危機的状況に直面した際にケネディ大統領の一言が政策を決定した、とはいえ国防総省・国務省・軍部の高官及び主要閣僚などが政策決定に与えた影響は大きかった。それまではアイゼンハワーもトルーマンも文民・軍人の官僚からは距離を置き、自身で政策を決定した後に各省庁の部下と協議することがほとんどであった。しかしケネディは政策を決定する前に部下のアドバイスに対してより積極的に耳を傾けた。また議会に対してはアイゼンハワーは議会指導者に外交上の進展について周到に情報提供をしていたが、ケネディは逆に議会に対して時々にしか提供せず、議会の役割は前任者に比べて小さいものでしかなかった。ケネディはアメリカ軍最高司令官としての権力に依存して軍事政策を決定したが、この権力は翌1963年11月22日のケネディ暗殺事件後に昇格したジョンソン大統領によってさらに頻繁に使われるようになっていくことになった。
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