南部諸州戦線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 21:18 UTC 版)
詳細は「クリーク戦争」を参照 この地を領土とするインディアン諸部族が米英の侵略に対して蜂起。ショーニー族の若き戦士テクムセの呼びかけにより、米軍との徹底抗戦を決めたクリーク族インディアンの戦い(クリーク戦争)と、休戦条約の頃に行われたメキシコ湾沿岸からのイギリス軍による侵攻が含まれる。 1814年3月、アンドリュー・ジャクソンはテネシー州民兵、チェロキー族戦士およびアメリカ陸軍正規兵を率いて南部に向かい、クリーク族のメナワたちインディアン戦士団と戦った。3月26日、ジャクソンとジョン・カフィー将軍はホースシュー・ベンドの戦いでクリーク族を打ち破り、クリーク族1,000名の中800名を殺したのに対し、約2,000名のアメリカ軍・チェロキー族連合軍は40名の戦死と154名の負傷に留まった。ジャクソン軍は生き残ったクリーク族を追跡し降伏に追い込んだ。インディアンはイギリス側に付き、イギリスも支援していたので、多くの歴史家がクリーク戦争を米英戦争の一部と見なしている。 イギリス軍は9月のニューヨーク州とメリーランド州での攻勢ではかばかしい戦果を上げられず、視点を南に向けて10,000名以上の部隊を載せた艦隊をメキシコ湾に派遣した。ジャクソンは更に西に動いて、1814年の暮れからのイギリス軍の侵攻に備えた。
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