南インド諸王朝との抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/27 20:57 UTC 版)
「パーンディヤ朝」の記事における「南インド諸王朝との抗争」の解説
4世紀から6世紀のパーンディヤ朝の様子は審らかでないが、北方のマイソール地方から来たというカラブラ族の支配を受けたために独自の記録がないためである。パーンディヤ朝の刻文史料には、カラブラ族は仏教やジャイナ教を保護してパーンディヤ王がバラモンに与えた村落を奪った悪しき支配者として記録され、そのような支配者からカドゥンゴーン(位560? - 590?, 位590? - 620?)が独立を果たしたことが記録されている。カドゥンゴーン王の後継者たちは、西海岸のケララ地方にまで勢力を拡大したが、7世紀末のアリケーシャリ・マーラヴァルマン(位640? - 674?, 位670?-700?)の時代頃からパッラヴァ朝との抗争が激化した。マーラヴァルマン・ラージャシンハ(位730 - 65)のとき、パッラヴァ朝とバーダーミのチャールキヤ朝の連合軍を破り、底力をしめした。ジャリタ・バラーンタカ・ネドゥンジェリアン(ヴァラグナ1世)(位765 - 790?, 815?)は、西方のケララ地方のみならず北東のタンジョール地方まで勢力を及ぼし、パッラヴァ朝を脅かした。 次のシュリーマラ・シュリーヴァラバ(位815?,830?- 862)の時代にはセイロンを侵略し、その首都を陥落させる勢いであったが、パッラヴァ朝とラーシュトラクータ朝の連合軍及びセイロン王セーナ2世に挟み撃ちにされて、首都マドゥライは陥落させられ、シュリーヴァラバ王は戦死した。その間チョーラ家のヴィジャヤラーヤ(位846 - 871)が、パッラヴァ朝とパーンディヤ朝が抗争を繰り返す過程で勢力を拡大し、パッラヴァ朝の封臣ムッタライヤル家からタンジャヴールを奪って本拠とした。またヴィジャヤラーヤによって、パーンディヤ朝のヴァラグナ・ヴァルマン2世(位862 - 880)はシュリー・プランビアムで大敗し、ヴィジャヤラーヤの孫のアーディティヤ1世(位871 - 907)は、パッラヴァ朝の内乱に乗じて主君のであるはずのパッラヴァ家のアパラージタを殺害し、その領地を併合した。ヴァラグナ・ヴァルマン2世の孫マーラヴァルマン・ラージャシンハ2世(位900?,905? - 920)もバラーンタカ=チョーラ1世(位907 - 955)に本拠マドゥライを陥落させられ、たよりのセイロンの援軍も破られその版図は併合された。パーンディヤ王は、セイロンに逃れ、セイロンとチョーラ朝はこのことを契機に反目するようになった。マーラヴァルマン・ラージャシンハ2世の亡命により一旦パーンディヤ朝は、滅亡した。チョーラ朝は、チョーラ=パーンディヤと称する太守をマドゥライに置いた。パーンディヤ家はセイロンでの長く苦しい亡命生活を強いられることになる。
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