南インドの遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/24 14:22 UTC 版)
「ラグージー・ボーンスレー」の記事における「南インドの遠征」の解説
1739 年、タンジャーヴール・マラーター王国がカルナータカ地方政権に攻められた際、その君主シャーフージー2世はマラーター王国の首都サーターラーへと援軍の派遣を要請した。 1740年、ラグージーはマラーター王国からの要請により、4月にはカルナータカ地方政権の領土に攻め入り、5月にその首都アルコット近郊で太守ドースト・アリー・ハーンを殺害した(ダーマルチェルヴの戦い)。 ドースト・アリー・ハーンの死後、ラグージーはアルコットを占領したが、息子のサフダル・アリー・ハーンと娘婿のチャンダー・サーヒブが太守位をめぐり争いを起こした。彼はこの内乱において、サフダル・アリー・ハーンに味方し、11月に彼を即位させた。 その後、タンジャーヴール・マラーター王プラタープ・シングの要請により、1741年にチャンダー・サーヒブの逃げ込んだティルチラーパッリを包囲し(ティルチラーパッリ包囲戦)、チャンダー・サーヒブをマラーター本国へと送還した。
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