医学科入学以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 05:05 UTC 版)
憲次は英語を十歳の頃に習い始めて、十一歳の時には当時中学校五年間で習う英語の教科書五巻をあげてしまうほどに英語が得意であった。そのため、本人も英語を続けたいという希望があったという。そのことを祖父に話すと「何も医者とは限らぬ。何でも本人のなりたいものになれ」と言った。しかし、同じ話を父親にしたところ、当時医学博士というものが国内に五名ほどしかいなかったという実状から、「私はこの子を医者にして博士にした。それには英語ではだめだ。ドイツ語が必要だからどうしても独協中学校に入れたい。」と主張したため、高木はドイツ語を学ぶこととなったのである。 肢体不自由児療育を目指すに至る二つのエピソード 憲次は尋常小学校四年生のとき、鎌倉に遠足に行ったことについて書いた作文において医学を志す一つのきっかけを記している。憲次はその当時としては珍しい手足不自由の孤児院の子どもと会ったことにより、「乞食になるほかない」といわれる子どもたちについて非常に心を動かされていたようである。また、当時高木家で車夫をやっていたものが「手足不自由のある子どもが寄ってきたのをおっぱらった話」をしていたことについて、憲次の父左金吾が「孤児院というところは汚いかもしれないが、これは大変立派な仕事で、かわいそうな子どもを助けてやっているのだから、汚いと蔑視してはいけないのだ。」と叱り、「自分もそうした子どもたちを見てやりたい。」と言っているのを憲次は感心して見ていたという。 憲次は第一高等学校時代、商売人が使うものと同じ写真機を父から買ってもらい、大変喜んで使っていたという。さっそく入学の年である1905年(明治38年)の10月に写真機を担いで富士山を写して回ったのであるが、その際に目にとまった3、4人の肢体不自由児の姿が、後に肢体不自由児療育の仕事に入るきっかけとなったという。この子どもたちは設立間もない富士育児院に収容されていた。この子どもたちに縄をなったり、わらじ等を作らせて生活の世話をしている富士育児院の人の話を聞き、感心したという。
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