北西部陰謀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 07:22 UTC 版)
ハインズは1864年1月に逃亡したときにアメリカ連合国首都バージニア州リッチモンドまで行った。そこでアメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスを説得し、捕虜を逃がし、北部の大都市で火災を起こして、北部州の大衆に恐慌を来させる案を受け入れさせた。デイヴィスはハインズの案に動かされ、支援を行うことに同意した。デイヴィスは国務長官のジュダ・ベンジャミンと陸軍長官のジェイムズ・セドンにその計画を伝えるよう勧めた。両人も計画に同意しハインズに実行を奨励したが、デイヴィス、ベンジャミンおよびセドンが唯一躊躇ったことはイギリスやフランスがハインズの行動をどう思うかを含め、世論に与える影響力だった。 ハインズはカナダから北部に入るのが容易だと考え、冬の間にカナダに移動した。1864年秋にカナダから北西陰謀を指導した。ベンジャミン・アンダーソン大佐が南軍の他の兵士達と共に計画に加わった。ハインズとその部隊はイリノイ州シカゴのキャンプ・ダグラスで捕らわれている南軍の捕虜を解放できることが期待されていた。 ハインズは1864年8月25日にオンタリオ州トロントから60名の部隊を率いて出発した。その年は民主党全国大会がシカゴで開催されており、その時にシカゴに到着した。コパーヘッド達は5万人のコパーヘッドがその大会のために集まるのでその時まで待つようハインズに伝えた。しかし、コパーヘッドがハインズ達を援助することを躊躇するのを見て、連邦当局が明らかに計画を知っているとも思われたのでハインズ達は8月30日にシカゴから逃げ出した。ハインズ隊の多くの者はアンダーソンが二重スパイかもしれないと考えており、アンダーソンを集団から去らせた。1864年アメリカ合衆国大統領選挙の間にキャンプ・ダグラスから南軍捕虜を逃がす2度目の試みが起きたが、この計画もうまく行かなかった。 同じ年にハインズは、カナダに逃げていたモーガンの襲撃の元隊員を徴募することで南軍捕虜を逃がす試みをした。これにはカナダ生まれでモーガン隊の通信士ジョージ・"ライトニング"・エルスワースが含まれていた。ハインズがシカゴにいた最後の日に北軍兵による隠れ家捜索で発見されることを避けるために、隠れ家の主婦が精神錯乱で寝ているマットレスの中に這い込んで逃れた。兵士達は家の玄関前に門衛を置いた。翌日は雨が降っていたので、病気の主婦を訪れる訪問客があった。兵士達は傘のうちの顔を一度も見なかったので、これを利用してハインズは家を出てシカゴを離れた。
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