北アイルランド法の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 15:36 UTC 版)
アイルランド法の歴史は、コモンロー発展のため、全土に統一的な司法制度、裁判システムを創設したヘンリー2世のアイルランド侵略に始まる。 詳細は「アイルランドの歴史」を参照 12世紀にヘンリー2世がアイルランド侵略に着手すると、息子のジョンが「アイルランド卿」の称号を父から継いでアイルランドを支配するようになった。もっとも、その支配権はとても完全なものと言えず、本土と同様にアイルランド古来の慣習を尊重するという妥協的な政策を強いられた。このことが、アイルランドにも長い時間をかけて徐々にコモン・ローが根付く契機となった。 1541年にヘンリー8世が「アイルランド王」を自称し、この後もアイルランドへの出兵を断続的に継続してゆき、ジェームズ1世の治世にイングランドのアイルランド全島の支配が確立した。アイルランドのケルト系の先住民はカトリックに改宗し、徐々にイングランドのアイルランドへの影響も大きなものとなってゆき、17世紀から18世紀にかけてアイルランド支配は確立するが、それでもアイルランドが完全に同一化することはなかった。アイルランドでは、宗教改革後もカトリックを固持したため、プロテスタントに改宗して国教会(聖公会)を樹立していたイングランドからカトリック信者のアイルランド人が選挙権・被選挙権を制限されるなど、長らく差別や抑圧の時代が続くが、1800年合同法によって英国(グレートブリテン王国)と合併する(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)に至る。アイルランド議会は解散することとなる。 1920年にアイルランド統治法が制定されたことにより、1922年にアイルランド北部を占めるアルスター地方の6州は、英国にとどまることとなって現在の北アイルランドとなるが、南部26州がアイルランド自由国となって英国の自治領となり、後に独立してアイルランド共和国になる。 北アイルランドでは、このアイルランド統治法によって北アイルランド議会が設置され、英国の議会から広範な立法権が委譲された。北アイルランド議会は、英国同様、国王の代理としての総督、上院、下院の三者で構成されており、北アイルランド執行委員会と呼ばれる内閣が組織され議院内閣制がとられるようになった。
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