効用批評と審美批評
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 07:41 UTC 版)
アリストテレスは文学の効用をカタルシス(感情の浄化)にあるとしたが、文学になんらかの実益を期待する視点は、その後も根強く存在して批評の一角を占める。ことに政治・宗教・教育方面に携わる人たちにこの傾向が強く、彼らは自己の信条に忠実であればあるほど、文学作品に自律性よりは教化の道具をみる。例えば、毛沢東の『文芸講話』(1942)、バチカンの『禁書目録』(1564~1965)、公的権力による文学裁判・発禁、作家の国外追放などはその極端な例である。 文学者は一般に文学を文学以外のいかなる効用的規範にも従属させることを好まず、多かれ少なかれ、審美批評(utilitarian criticism)の立場に立つ。審美批評の立場は、ゴーチエの「芸術のための芸術」の言葉に代表される芸術至上主義である。一方で、より高次の効用批評(aesthetic criticism)に立つ立場があり、この立場はトルストイの「人生のための芸術」の言葉に代表される、人生至上主義ないし人道主義である。審美批評と効用批評の例として、「文学は男子一生の仕事に非ず」とした二葉亭四迷と、「人生は一行のボードレールにも若かない」とした芥川龍之介が挙げられる。
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