初期~マノ・ネグラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/15 08:43 UTC 版)
初めて加入した家の近所のバンドで、自分はベースをやっていてベースをやりたかったが、そのバンドで誰も歌手をやりたがらず、バンド内の力関係で(一番若く、喧嘩も他のメンバーほど強くなかったから)お前がやれ、と無理矢理歌手をやらされた、のが自分の歌手キャリアの始まりだった、と語っている。そして、その時は、無理矢理やらされて全然ハッピーではなかったが今にして思えば、彼らに感謝している、彼らが自分の歌手キャリアをスタートさせてくれたのだから、と。 マヌはUKロック・シーンに強く影響を受けており、とりわけザ・クラッシュやドクター・フィールグッドが挙げられている。1980年代半ばにチャオは他のミュージシャンとスパニッシュ/イングリッシュのロカビリーグループ、ホット・パンツを結成。1984年にデモ曲、"Mala Vida"を発表。地元では大いに評価され、注目されることになった。 1987年にマヌの兄弟と従兄弟とでマノ・ネグラを結成、小さなレーベルよりスタートする。マノ・ネグラの名が知られるようになる前は、パリの地下鉄駅で演奏して生計を立てていた、パリの地下鉄の利用者は、色んな国出身で色んな文化背景を持つ人達が集まるので、世界各国の色んなジャンルの音楽を演奏出来ないと、そういう人達全てを喜ばせられない、なので、そこはミュージシャンとして、色んな異なるスタイルの音楽を習得する為のパーフェクトな学校のような場所で、とてもいい経験になった、とマヌ・チャオは語っている。1988年、ホット・パンツのシングルMala Vida (マラ・ビーダ/Bad Life)をリワークしてリリースすると、フランスでヒットし、間も無く、ヴァージン・レコードに移り、ファースト・アルバム Patchanka (1988)をリリースした。英語圏の市場では受けなかったが、オランダやイタリア、ドイツ等、一部の非英語圏では人気があった。その後、Puta's Fever (1989)、King of Bongo (1991)、Casa Babylon (1994)というオリジナルアルバム(スタジオ・アルバム)をリリース、その他にもライブアルバムやコンピレーションアルバム等もリリースしている。オリジナルアルバムとしては、Casa Babylon(カーサ・バビロン/バビロンの家)が最後のアルバムとなった。
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