初代教頭・山本良吉
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「武蔵高等学校 (旧制)」の記事における「初代教頭・山本良吉」の解説
山本良吉(1871年10月10日〜1942年7月12日)は金沢の出身で号は晁水である。第四高等中学校(のちの旧制四高)で北条時敬教授に師事し、西田幾多郎・鈴木大拙らと交友関係を結んだ。予科卒業ののち、東京帝国大学文科大学(現在の東京大学大学院人文社会系研究科・文学部)哲学科の選科を修了した。京都府尋常中学・静岡県尋常中学の教諭を経て1900年には京都府立二中教諭、ついで教頭。1908年には京都帝大学生監、翌1909年からは旧制三高教授を兼任した。その後1918年恩師である北条時敬に招聘され学習院教授。 1922年、武蔵高等学校開校に際して教授兼教頭に任じられ、一木喜徳郎校長から校務の全権を委任された。同年、一木が第1回入学式の式辞として述べた「三理想」は山本の発案によるものであり、一木との協議のうえ式辞に採用され、山本のもとで武高の教育理念となった。「武蔵高校は日本のイートン、オクスフォード、ケンブリッジたらねばならぬ」という強固な信念を持っていた山本は、独特の厳格なスパルタ的教育理念に基づき、第2代の山川健次郎校長の下で教頭に留任、ついで第3代校長に任じられ、開校以来約20年にわたって武高教育の確立に努めた。1942年、校長在任中に死去。創立者である初代理事長の根津と並び、教育者として旧制武蔵高校を代表する人物である。著書も多く『中等教養』『国民の教養』など27点に上る。
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