初代教頭・山本良吉とは? わかりやすく解説

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初代教頭・山本良吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 04:02 UTC 版)

武蔵高等学校 (旧制)」の記事における「初代教頭・山本良吉」の解説

山本良吉1871年10月10日1942年7月12日)は金沢出身で号は晁である。第四高等中学校(のちの旧制四高)で北条時敬教授師事し西田幾多郎鈴木大拙らと交友関係結んだ予科卒業ののち、東京帝国大学文科大学現在の東京大学大学院人文社会系研究科・文学部哲学科選科修了した京都府尋常中学静岡県尋常中学教諭経て1900年には京都府立二中教諭、ついで教頭1908年には京都帝大学生監、翌1909年からは旧制三高教授兼任したその後1918年恩師である北条時敬招聘され学習院教授1922年武蔵高等学校開校に際して教授教頭任じられ一木喜徳郎校長から校務全権委任された。同年一木第1回入学式式辞として述べた「三理想」は山本発案よるものであり、一木との協議のうえ式辞採用され山本のもとで武高の教育理念となった。「武蔵高校日本イートンオクスフォードケンブリッジたらねばならぬ」という強固な信念持っていた山本は、独特の厳格なスパルタ教育理念に基づき第2代山川健次郎校長の下で教頭留任、ついで第3校長任じられ開校以来20年わたって高教育の確立努めた1942年校長在任中に死去創立者である初代理事長根津並び教育者として旧制武蔵高校代表する人物である。著書多く中等教養』『国民教養』など27点に上る

※この「初代教頭・山本良吉」の解説は、「武蔵高等学校 (旧制)」の解説の一部です。
「初代教頭・山本良吉」を含む「武蔵高等学校 (旧制)」の記事については、「武蔵高等学校 (旧制)」の概要を参照ください。

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