初の労使協定とは? わかりやすく解説

初の労使協定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 00:34 UTC 版)

1982-1983シーズンのNBA」の記事における「初の労使協定」の解説

マジック・ジョンソンラリー・バードNBA入りリーグ確実に上昇気流乗り始めていたが、それでも潤っていたのは一部のみで、依然として大多数球団財政難苦しんでおり、1983年段階では23チーム17チーム赤字経営に陥っていた。そしてこのシーズン前には選手たちへの給料未払い問題発生したため、カンザスシティ・キングスサンディエゴ・クリッパーズでは選手たちによるストライキ計画された。このストライキ回避されたものの、当時苦しい経営強いられたリーグ状況を、如実に物語事件だった。度々衝突してきた協会選手会さすがに危機感抱き協議の場を持って1983年3月にはNBA初の労使協定が締結された。主な内容以下の通りサラリーキャップ制度導入アメリカ四大メジャースポーツの中で、最も歴史の浅いNBAが他のリーグ先駆けてサラリーキャプ制度の導入決定した。もっともNBAにはBAA創設当初からサラリー制限する制度存在しており、当時選手一人サラリーの上限を5500ドル定めていた。今回協定定められサラリーキャップ制度では、全選手サラリー総額リーグ全体総収益53%以下とすることが定められた。これは当時球団経営圧迫していた最大要因である、天井知らずの上昇を続け選手サラリー抑えるのが目的だった。 最低保証額の設定選手サラリー抑える制度定められる同時に選手最低限サラリー保障する制度設けられた。今回協定保証額は40000ドル定められた。また、チーム数の増減関わらず球団リーグ全体で最低253人の選手保有しなければならないことも決定した。 この協定財政健全化一役買った点で、NBA大きな転換期となった。また過去、自らの主張を通すために多く裁判頼ってきた選手会が、協会と同じテーブル着いたことも大きかった。そしてこの時協会選手会橋渡しをし、協定締結尽力したのが当時協会顧問弁護士務めていたデビッド・スターンだった。

※この「初の労使協定」の解説は、「1982-1983シーズンのNBA」の解説の一部です。
「初の労使協定」を含む「1982-1983シーズンのNBA」の記事については、「1982-1983シーズンのNBA」の概要を参照ください。

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