初の労使協定
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「1982-1983シーズンのNBA」の記事における「初の労使協定」の解説
マジック・ジョンソン、ラリー・バードのNBA入りでリーグは確実に上昇気流に乗り始めていたが、それでも潤っていたのは一部のみで、依然として大多数の球団は財政難に苦しんでおり、1983年の段階では23チーム中17チームが赤字経営に陥っていた。そしてこのシーズン前には選手たちへの給料未払い問題が発生したため、カンザスシティ・キングスとサンディエゴ・クリッパーズでは選手たちによるストライキが計画された。このストライキは回避されたものの、当時苦しい経営を強いられたリーグの状況を、如実に物語る事件だった。度々衝突してきた協会も選手会もさすがに危機感を抱き、協議の場を持って1983年3月にはNBA初の労使協定が締結された。主な内容は以下の通り。 サラリーキャップ制度の導入:アメリカ四大メジャースポーツの中で、最も歴史の浅いNBAが他のリーグに先駆けてサラリーキャプ制度の導入を決定した。もっともNBAにはBAA創設当初からサラリーを制限する制度が存在しており、当時は選手一人のサラリーの上限を5500ドルに定めていた。今回の協定で定められたサラリーキャップ制度では、全選手のサラリー総額はリーグ全体の総収益の53%以下とすることが定められた。これは当時球団の経営を圧迫していた最大の要因である、天井知らずの上昇を続ける選手のサラリーを抑えるのが目的だった。 最低保証額の設定:選手のサラリーを抑える制度が定められると同時に、選手の最低限のサラリーを保障する制度も設けられた。今回の協定で保証額は40000ドルに定められた。また、チーム数の増減に関わらず、球団はリーグ全体で最低253人の選手を保有しなければならないことも決定した。 この協定は財政の健全化に一役買った点で、NBAの大きな転換期となった。また過去、自らの主張を通すために多くは裁判に頼ってきた選手会が、協会と同じテーブルに着いたことも大きかった。そしてこの時協会と選手会の橋渡しをし、協定締結に尽力したのが当時協会の顧問弁護士を務めていたデビッド・スターンだった。
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