内陸部のスワヒリ化とは? わかりやすく解説

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内陸部のスワヒリ化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 10:02 UTC 版)

スワヒリ文化」の記事における「内陸部のスワヒリ化」の解説

キルワザンジバル市場扱っていた象牙奴隷は、もともとは内陸住民キャラバン仕立てて沿岸部まで売りにきていたものであったビクトリア湖などの大湖地方誕生したブガンダ王国やブニョロ・キタラ王国は、18世紀になるとインド洋沿岸との遠隔貿易乗り出した。その仲介をしたのが沿岸地域スワヒリ商人であったが、多く内陸部まで入ってこず、ニャムウェジ族などの内陸部族積極的にその役割担っていた。1852年カンバ族キャラバン隊商がモンバサ訪れたという記録残っている。 やがてオマーン商人率いキャラバンビクトリア湖タンガニーカ湖、さらにその向こうにまで進出し往復数年かけるようになった内陸住民オマーン支配されたりしたのではなくヘンリー・スタンレーの『リビングストン発見記』にあるように、奴隷象牙引き換え入手する鉄砲用いて周辺部族を切り従え強大化する部族存在したキャラバン一緒にイスラム教や、沿岸部限定言語であったスワヒリ語内陸部普及していく。しかしイスラム教徒商人宗教的な規制のため利息をとることが出来なかったため、かわりにバニアンとよばれたヒンドゥー教徒インド人資本提供したインド人は昔から東アフリカ商売来ていたのだが、サイド治世において急速にその数を増したキャラバン通商最大通路は、ザンジバル対岸バガモヨからはじまり、ニャムウェジ族中心地ウニャニェンベ(現在のタボーラ州タボラ付近)を中継点とし、西はウジジに、北へカラグウェ王国通ってブガンダ王国到達したティップー・ティプあだ名されたアラブ人ムハンマドビン=ハメッドはタンガニーカ湖西岸のルアラバ地域、つまりコンゴ(旧ザイール)東部全域支配しニャムウェジ族協力してキャラバン組織しコンゴインド洋沿岸と結びつけた。

※この「内陸部のスワヒリ化」の解説は、「スワヒリ文化」の解説の一部です。
「内陸部のスワヒリ化」を含む「スワヒリ文化」の記事については、「スワヒリ文化」の概要を参照ください。

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