兼任監督・移籍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 10:47 UTC 版)
1921年、選手兼任でタイガースの監督に就任した。同年のワシントン・セネタースとの一戦では審判の判定に激高し、試合後に観客と息子のジュニアが見守る中で審判のビリー・エバンスと取っ組み合いの大喧嘩を起こした。シーズンでは.389の高打率を残しながらも首位打者は獲得できなかったが、自身初の二桁本塁打を残している。また、同年はハリー・ハイルマンとカッブが打率1位と2位を独占し、リーグ史上最高となるチーム打率.316を記録した。しかしこの頃からベーブ・ルースを擁するヤンキースが圧倒的な強さを見せ始め、タイガースもカッブやハイルマンがチームを牽引するものの、優勝には手が届かないシーズンが続いた。 1922年には.401の高打率を残すが、首位打者は.420を記録したジョージ・シスラーに譲った。しかし3回目の打率4割は近代野球以降で史上初の記録となり、19世紀を含めてもエド・デラハンティ以来の記録となった。 1925年には目を悪くしたことで手術を行ったが、現役にこだわり、.378の高打率を残す。首位打者獲得はならなかったものの、自身2度目の2桁本塁打を記録した。同年にはシスラーと野手同士の登板を演じ、無失点に抑え初セーブを挙げている。 1926年、39歳となったカッブは打率.339を記録するもシーズン終了後、八百長疑惑(後述)などもあってタイガースを退団し、フィラデルフィア・アスレチックスに移籍。3902安打、2087得点、664二塁打、286三塁打といった記録は、現在でもタイガースの球団記録として残っている。監督としての成績は6年で試合数933、勝利479、敗戦444で勝率.519であり、最高順位は2位。この間にチャーリー・ゲーリンジャーやハリー・ハイルマンといった選手を育成している。
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