全真教研究の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/31 08:53 UTC 版)
従来の全真教研究のフレームワークの源流は、1941年の陳垣の『南宋初河北新道教考』にあり、これは唯物思想の抵抗史観を背景に持ち、旧来の道教に対して全真教を「新道教」とする意味付けは極めて歴史的経緯を背負った術語でもあった。1930年の常磐大定の『支那における仏教と儒教道教』と陳垣の論文を基本的に受け継ぐかたちで書かれた1967年の窪徳忠の『中国の宗教改革:全真教の成立』は、教理にも踏み込んで分析がなされたが、それは先行研究と同様の道教の旧弊を廃した姿として描かれ、内丹についても全真教の革新性を強調するためか極めて低い位置付けとなっていた。常盤大定・窪徳忠によれば、全真教は後世に張伯端以下の内丹道、すなわち南宗との接触により堕落や変容したとされていたが、全真教で説かれる「性命双修」は元々北宋の張伯端によって提唱したとされ、いわゆる旧道教との断絶を強調し過ぎるとその思想的関係が説明しにくいきらいがあった。 全真教は現代まで繋がる道教の二大教派の一つでありながら、その研究は上述の窪徳忠などの先行研究以降は部分的なものはあっても、教理・実践面の特に内丹学については研究が遅れていた。しかしその面においても近年は研究が進みつつある。 精神面の修行は以前から多少とも内丹の修行の一部として含まれており、特に悟達に重きを置いた内丹説は既に張伯端によって主張されていた。開祖の王重陽は禅僧ではなく内丹の道士であり、当時の思潮の中にあって全真教とは精神的な悟達を全面的に推し進めたことなどに道教での位置付けがある。従来のフレームワークに囚われずこのような視点を中心にして内丹と全真教を論じた研究が発表されるようになって来ている。
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