入団拒否から社会人野球へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 06:14 UTC 版)
「黒田真二」の記事における「入団拒否から社会人野球へ」の解説
同年11月のプロ野球ドラフト会議では酒井圭一と並んで高校生の目玉とされた。広島とは相思相愛で他球団には指名しないよう要望していたが、指名順が広島の2つ前だった日本ハムファイターズが1位で強行指名。広島は結局チームメイトの遊撃手山崎隆造を1位指名。日ハムへの入団を拒否する自分の意思とプロ入りを勧める周囲の意見との間で悩んでいる時に日本鋼管福山の監督と出会い、同社入りを決意する。しかし、環境の変化に対応できず気管支喘息で入院し1年で退社。 野球を続けたいという気持ちが沸いてきた中、誘いがあったリッカーに入団。社会人野球では例のない移籍となるため1年間の出場停止となる、しかし1980年には山内和宏と投の二本柱を組み、社会人野球日本選手権に出場。1回戦では先発し、山内とのリレーで新日本製鐵堺を完封。2回戦は山内が打ち込まれ日本楽器に敗退した。その後も都市対抗野球大会の補強選手に選ばれるなど活躍。しかし若手の中西清起(1981年入社で、黒田と同じくセンバツ優勝投手)の台頭やリッカーの経営不振もあり、1982年オフにドラフト外でヤクルトスワローズに入団した。
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