酒井圭一とは? わかりやすく解説

酒井圭一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/30 04:02 UTC 版)

酒井 圭一
基本情報
国籍 日本
出身地 長崎県壱岐市芦辺町[1]
生年月日 (1958-06-01) 1958年6月1日(67歳)
身長
体重
185 cm
88 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1976年 ドラフト1位
初出場 1977年4月21日
最終出場 1990年7月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

酒井 圭一(さかい けいいち、1958年6月1日 - )は、長崎県壱岐市出身の元プロ野球選手投手)、スカウト。現役時代の愛称は「サッシー[2]。これは当時話題となった未確認動物ネッシー」にちなむ、怪物を意味するものだった[2]

来歴・人物

長崎・海星高で、1976年の高校3年の夏には、長崎・西九州大会の予選計7試合で70奪三振、失点1の好成績をあげる。このうち2試合はノーヒットノーラン、長崎大会3回戦の島原中央高戦では初回先頭打者から16者連続奪三振を記録した[2][3]

その後の、第58回全国高校野球選手権大会で、長崎県勢24年ぶりの4強進出を果たす。準決勝ではPL学園高の中村誠治(早大 - 日産自動車)、米村明と投げ合い惜敗するが、同大会では5試合で被安打16、奪三振40、失点6の成績で、サッシー旋風を巻き起こした[2][4]

1976年ドラフト1位でヤクルトスワローズに入団[5]。当時の松園尚巳オーナーも長崎出身で、酒井を大変可愛がっていたという。松園は事前に指名するよう命令していた。そのため、当時の寮長だった小川善治はみんなに内緒で長崎に行き、酒井にだけ基礎トレーニングを行っていた[6]。入団が決まった後に開かれた激励会には当時の長崎県知事、長崎市長も出席する程の盛り上がりだった[1]

1977年は1年目から6試合に登板。初勝利とはならなかったが、5試合に先発するなど経験を積んだ。

1978年は一軍登板なしに終わる。

1979年はオープン戦で左頬の陥没骨折に見舞われる[7]。その後、2年ぶりに一軍マウンドへ上がるが、この年も白星を挙げられなかった。

1980年には4勝4セーブを記録する[1]。防御率も3.11を記録し飛躍の年となった。この頃には「速球本格派」から「技巧派」にモデルチェンジしていた[8]

1981年は14試合に中継ぎとして投げた。

1982年は起用機会が減り、芳しい成績を残せなかった。

1983年は15試合に登板。

1984年に自己最多の42試合に登板。

1985年は8試合に登板。

1986年は2試合に登板。

1987年は28試合に登板し、まずまずの成績を残す。

1988年は防御率2.86と好成績を記録。

1989年は5試合の登板に終わり、苦しいシーズンだった。

1990年野村監督に促され現役引退。

引退後もヤクルトに所属し、まずは打撃投手を務め、その後はスカウトを務めた[9](九州地区[10])。投手獲得の際には酒井の意見が重宝されていた。

2019年に定年退職。母校の海星高が17年ぶりの夏の甲子園白星を挙げた際は、喜びの声を挙げていた[11]

選手としての特徴

球種はキレ抜群の速球と縦・横のカーブのみ[12]。中継ぎを任されるようになってからは、スライダーフォークシンカー系のボールを投げていた。指名時には超高校生級の評価を受けていた。プロに入ってからは右肘の剥離骨折など故障に泣き、6勝に終わった[13][1]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1977 ヤクルト 6 5 0 0 0 0 2 0 -- .000 89 19.0 27 6 6 0 1 8 0 0 17 14 6.63 1.74
1979 24 3 0 0 0 0 3 0 -- .000 203 44.2 51 10 24 1 1 31 0 0 43 33 6.60 1.68
1980 28 3 0 0 0 4 3 4 -- .571 229 55.1 47 6 25 1 4 37 3 2 21 19 3.11 1.30
1981 14 0 0 0 0 1 1 0 -- .500 79 20.0 19 4 7 2 0 15 1 0 12 12 5.40 1.30
1982 8 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 40 9.1 10 3 4 0 0 4 0 0 7 7 7.00 1.50
1983 15 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 89 19.1 30 8 2 0 1 8 0 0 16 16 7.45 1.66
1984 42 0 0 0 0 1 2 0 -- .333 269 64.0 71 10 10 1 3 26 2 0 37 36 5.06 1.27
1985 8 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 55 12.0 13 1 9 0 0 0 0 0 9 9 6.75 1.83
1986 2 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 20 3.2 7 0 1 0 0 2 0 0 5 5 12.27 2.18
1987 28 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 183 43.1 45 8 14 4 3 22 1 0 21 19 3.95 1.36
1988 34 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 214 50.1 51 3 22 3 2 22 2 0 21 16 2.86 1.45
1989 5 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 35 8.0 10 1 1 0 0 5 1 0 5 5 5.63 1.38
1990 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 19 2.0 8 1 5 0 0 1 0 0 8 7 31.50 6.50
通算:13年 215 11 0 0 0 6 12 4 -- .333 1524 351.0 389 61 130 12 15 181 10 2 222 198 5.08 1.48

記録

  • 初登板・初先発:1977年4月21日、対大洋ホエールズ5回戦(明治神宮野球場)、6回2失点で勝敗つかず
  • 初勝利:1980年4月30日、対横浜大洋ホエールズ3回戦(明治神宮野球場)、3回表無死から3番手で救援登板、4回1/3を1失点
  • 初セーブ:1980年5月7日、対阪神タイガース4回戦(岡山県野球場)、9回裏二死から3番手で救援登板・完了、1/3回無失点
  • 初先発勝利:1980年8月7日、対読売ジャイアンツ17回戦(明治神宮野球場)、7回1失点

背番号

  • 18(1977年 - 1983年)
  • 23(1984年 - 1990年)
  • 99(1991年 - 1998年)

脚注

  1. ^ a b c d プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、240ページ
  2. ^ a b c d 【11月29日】1976年(昭51) ヤクルト、怪物サッシーに破格の契約金”. スポーツニッポン (2007年11月29日). 2013年8月31日閲覧。[リンク切れ]
  3. ^ 【球跡巡り・第79回】「サッシー」現る! 先頭打者から16者連続奪三振 長崎市営大橋球場”. NPB.jp 日本野球機構 (2024年7月5日). 2025年5月30日閲覧。
  4. ^ SANKEI DIGITAL INC (2019年7月2日). “海星・酒井圭一、県大会16人連続奪三振の「サッシー」伝説 原辰徳を凌ぐ注目選手に”. イザ!. 2021年8月6日閲覧。
  5. ^ 1970年代 「夏の球児」 写真特集:時事ドットコム”. 時事ドットコム. 2021年8月15日閲覧。
  6. ^ 投球が「怪物」だった甲子園のアイドル。ドラ1でヤクルト入団後、ある悲劇が野球人生を変えた”. web Sportiva (2021年8月4日). 2021年8月4日閲覧。
  7. ^ 週刊ベースボール別冊 よみがえる1970年代のプロ野球 [Part.3] 1976年編 長嶋ジャイアンツ初V ベースボール・マガジン社.2022年.45
  8. ^ エースの200勝達成を目前にリリーフ失敗。ヤクルトの「サッシー」はプレッシャーに苦しんだ”. web Sportiva (2021年8月12日). 2021年8月15日閲覧。
  9. ^ 週刊ベースボール2014年3月24日号 P21
  10. ^ 第1部プロ野球のドラフト1位たちが告白「これで終わった」自分の心が折れた瞬間(週刊現代) @gendai_biz”. 現代ビジネス (2013年1月28日). 2021年8月9日閲覧。
  11. ^ 海星勝利にOB元ヤクルト酒井圭一氏「次も勝って」 - 夏の甲子園 : 日刊スポーツ”. 日刊スポーツ (2019年8月12日). 2021年8月17日閲覧。
  12. ^ 投球が「怪物」だった甲子園のアイドル。ドラ1でヤクルト入団後、ある悲劇が野球人生を変えた”. web Sportiva (2021年8月4日). 2021年8月4日閲覧。
  13. ^ 悲喜こもごも 運命のドラフト史 写真特集:時事ドットコム”. 時事ドットコム. 2021年8月15日閲覧。

関連項目

外部リンク


酒井 圭一(さかい けいいち)

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WORST (漫画)」の記事における「酒井 圭一(さかい けいいち)」の解説

伊庭組の副頭。伊庭下級生数名と共に伊庭組を結成伊庭と共に花組鈴蘭制覇前に立ちはだかる最後の大物と言われていた人物九里虎の演説聞いて、花を鈴蘭番長認める。

※この「酒井 圭一(さかい けいいち)」の解説は、「WORST (漫画)」の解説の一部です。
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