先輩監督たちとの交流とチーム力向上
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「高橋正弘 (サッカー指導者)」の記事における「先輩監督たちとの交流とチーム力向上」の解説
その矢先の1973年(昭和38年)、当時の日産自動車サッカー部(後の横浜F・マリノス)の監督であった先述の加茂周と出逢いがあった。高橋は加茂を兄のように慕い、毎年高橋家を訪れる彼と酒を酌み交わし、ゼロからチームをつくる悩みを打ち明け合い、社会人と高校の立場で日本のサッカーのレベルアップを誓った。また、高橋は有力選手を社会に送り、加茂は高橋から高校サッカー指導者との人脈を作るといった具合に、互いに補い合うようになった。なお加茂のように、かつて一流選手として活躍したサッカー指導者と交わる際には、先述のように国士舘時代に日本リーグの重要な試合を欠かさず観戦していたことが会話のきっかけになり、功を奏していた。 1975年(昭和50年)、選手権を通じて親交のあった静岡県立清水東高等学校サッカー部監督の勝沢要から、春休みに静岡県で行われる日本全国の有力チームによるフェスティバルに誘われた。サッカー先進県といわれる静岡からは静岡県立藤枝東高等学校や静岡学園高等学校など10チーム、他県からは帝京や浦和市立南高等学校など計20チームが集まり、北海道勢は室蘭大谷が唯一であった。この陰には、高橋が日本全国の実力校の先輩監督たちから何でも吸収しようと、選手権出場のたびに部員たちに運ばせた新巻を土産に、先輩監督たちに教えを請うたという必死の努力があった。 このフェスティバルで高橋は、各校の監督たちと一晩中サッカー談議などサッカー漬けの5日間を過ごし、帝京の古沼貞雄たちから、春の段階でチームを一定のレベルに育てる秘訣、選手への効果的なアドバイス法など、多くを学んだ。当時の長崎県立島原商業高校の監督であった小嶺忠敏とは、日本の南北両端から旋風を起こし、高校サッカーのレベルを上げることを誓い合った。このフェスティバルの鍛錬により、高橋は全国レベルの技術を吸収することができ、チーム力向上のきっかけと、選手権準優勝の伏線となった。
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