信濃栗田氏とは? わかりやすく解説

信濃栗田氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 15:16 UTC 版)

栗田氏」の記事における「信濃栗田氏」の解説

信濃栗田氏は、北信地方武家氏族のひとつ。本姓清和源氏一系統の河内源氏清流村上氏支流で、村上為国の子寛覚が顕光寺延暦寺山門派別当となり信濃国水内郡(のち上水内郡栗田村住居して栗田氏となった鎌倉時代から室町時代まで善光寺園城寺寺門派別当職も世襲し、犬猿の関係にあったはずの両派を支配下に置く有力国人となる。 治承4年1180年9月7日信濃国市原当地には市原該当する地名見当たらないことから、現在の長野市若里市村神社南面犀川渡河地域考えられている[要出典])付近市原合戦が行われた。平家味方する信濃中野市笠原)の豪族笠原平五頼直が源義仲討伐のため、木曾への侵攻企てた。それを察した源氏方(信濃源氏名門井上氏一族)の村山七郎義直栗田寺別当大法師範覚(長野市栗田)らとの間での戦闘だが決着がつかなかった。この後木曽方参戦し笠原氏方に越後から城氏大軍率いて加勢駆けつけ横田河原の戦い発展した応安2年1369年信濃国守護でもあった関東管領上杉朝房善光寺横山城?)に向けて出陣した。そして春山城から氷鉋長野市川中島氷鉋)、平柴長野市安茂里平柴)へと陣を移して転戦した栗田氏従わないため攻められた。栗田氏上杉軍迎え撃って栗田城西木戸口での合戦となった制圧された。 文明9年1477年8月栗田氏隣接する領主の漆田秀豊の館(長野駅付近)を攻めて田氏打ち破ったとされている。 永正10年1513年越後国長尾為景高梨氏応援得て守護の上定実と対立すると、栗田氏井上氏海野氏信濃島津氏と共に守護方を応援して越後侵入しようとした。

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