信安没後の松平家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 14:10 UTC 版)
信安の死後、側室たま、松平八重子、松平豊子、松平義子は、本郷に小さな家に住居をかまえた。母は、長男信英の爵位の復興を期待するも、信英は父譲りの奔放な性格で大阪に出て行ってしまう。追い討ちに関東大震災で一家が離散、その後、松平たまは喘息で死亡した。八重子は結婚したが、他の姉妹は元華族を売り物に、没落の一途をたどった。八重子は新橋赤坂周辺の芸妓、豊子は女給・ダンサー、義子は芸者置屋に売られる。豊子と義子が松泉荘に一緒に住んでいた時期、義子は病に倒れ、病院に通っていた。昭和11年(1936年)9月9日午前10時30分頃、浜松町発四谷行きの市電が、御成門近くの愛宕警察署のカーブを曲がろうとした時、車窓台に乗っていた義子が振り落とされ、アスファルトの地面に叩きつけられた。義子は慈恵医大病院に担ぎ込まれ、豊子が看病していたところ、新聞で事故の記事を読んで、行方不明だった八重子、10年ぐらい連絡を取れなかった信英、信元が病室を訪れ、身内全員が再会することになる。さらに、松平3代に仕えた家臣だった堤和芳(当時85歳)が杖を突いて調布から駆けつけた。義子は昏睡状態から目を覚ますことなく、しばらくして息を引き取った。 『華族大系』では、松平信英、松平八重子、松平豊子、松平義子の名前は削除されており、次男の松平信元が家督を継いだとされている。
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