侍補廃止後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/08 16:00 UTC 版)
廃止後、元田は宮中に残ったが、佐々木は明治13年(1880年)に元老院副議長に任命され、吉井は工部大輔に昇進して宮中から遠ざけられた。しかし、同年に大蔵卿大隈重信が財政再建のため外債募集を提案すると、元田・佐々木ら元侍補達は伊藤ら反対陣営に与して再び親政運動を活発化、翌14年(1881年)に大隈の急進的国会開設論が伊藤らの反発を招き、開拓使官有物払下げ事件も暴露され混乱の中、佐々木らは谷干城ら政府内親政支持者とも結んで「中正派(ちゅうせいは)」と呼ばれるようになる。中正派は天皇とその周辺の政治権能の拡大を目指して、事あるごとに伊藤らと激しく対立した。 明治十四年の政変で大隈は伊藤により政界から追放され、払下げも中止となることで事態は終息に向かい、親政運動は下火となり中正派は政治の主流に立つ事はなかったが、元田による「教育勅語」起草・発布の実現など日本の国家主義の振興に大きな役割を果たす。ただし元侍補達が活躍できたのは教育分野だけで、他は顕著な成果を挙げられず挫折、佐々木は政変後に1度却下された工部卿となったが、官営模範工場の払下げと工部省の解体を促進したのみで、明治18年(1885年)の内閣制度創設に伴い工部省廃止となり、宮中顧問官として宮中へ移った。また、天皇も伊藤に説得されて親政を放棄、明治19年(1886年)に伊藤が上奏した機務六条を受け入れたことにより宮中の政治介入は否定され、明治22年(1889年)の大日本帝国憲法公布で天皇は君主権力の制限を受け入れ、政治関与を控えるようになっていった。
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