佐東銀山城の包囲と尼子氏の救援
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「佐東銀山城の戦い」の記事における「佐東銀山城の包囲と尼子氏の救援」の解説
大内軍は、本陣を門山城に移すと、義興の率いる本隊10,000が桜尾城を、嫡子・大内義隆を大将とする別働隊15,000が光和の籠もる佐東銀山城を攻めた。義隆はこの戦いが初陣であり、大内氏の重臣である陶興房らが加わっている。 陰徳太平記によると、大内軍が佐東銀山城付近に布陣していた頃、熊谷信直や香川吉景などの武田方国人衆1,000騎余は"坂の上"と呼ばれるところに陣を置いて、大内軍の様子を見ていた。興房は、国人衆が尾根伝いに城内に入るなら国人らの領地を先に攻めれば良く、そうしないとしても少数なので各個撃破できると判断していたが、杉氏と問田氏は6月27日の早朝に手勢を率いて坂の上を勝手に襲撃しようとした。しかし、杉・問田勢1,500騎の朝駆けは熊谷・香川勢に見抜かれてしまい、伏兵により返り討ちにされている。 7月3日、城兵3,000と共に籠城していた光和は、城外に出て大内の大軍と戦った。武田軍は少数であったが奮戦し、日暮れまで勝敗は決しなかった。この戦いでは、怪力で知られる光和自身が兵士たちと共に最前線で戦って武勇を誇ったとの伝説が残っている。 一方、元就からの急使により大内軍の安芸攻めを知った経久は、伯耆から出雲飯石郡赤穴まで引き返し、救援軍5,000を派遣。尼子方に属していた元就を初めとする安芸国人衆を引き連れ、大内軍と対峙した。7月10日に大内軍と尼子軍の合戦が行われ、牛尾氏・亀井氏が率いていた尼子氏直属の軍勢が先陣として戦うが、義隆の初陣で士気の高い大内軍が第2陣(平賀氏・宍戸氏・三吉氏・宮氏の軍勢)まで撃ち破って勝利した。この時元就は、吉川・小早川・熊谷・香川・三須の手勢と共に尼子軍第3陣として控えていた。 8月5日の夜、尼子軍は悪天候を突いて夜襲を行った。この夜襲は、元就の提案により行われたもので、夜襲部隊は元就に加えて熊谷信直・香川光景・三須房清などの安芸国人衆を中心に編成されていた。襲撃を受けた大内陣営は520余名が討たれた(毛利軍の被害は20余名とされる)ため、義隆の初陣に泥を塗らせないために、同月10日に大内軍は撤退した。
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