佐東銀山城の包囲と尼子氏の救援とは? わかりやすく解説

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佐東銀山城の包囲と尼子氏の救援

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/06 16:48 UTC 版)

佐東銀山城の戦い」の記事における「佐東銀山城の包囲と尼子氏の救援」の解説

大内軍は、本陣を門山城に移すと、義興の率い本隊10,000桜尾城を、嫡子大内義隆大将とする別働隊15,000光和の籠もる佐東銀山城攻めた。義隆はこの戦い初陣であり、大内氏重臣である陶興房らが加わっている。 陰徳太平記によると、大内軍が佐東銀山城付近に布陣していた頃、熊谷信直香川吉景などの武田国人衆1,000騎余は"坂の上"と呼ばれるところに陣を置いて大内軍の様子見ていた。興房は、国人衆尾根伝い城内に入るなら国人らの領地先に攻めれば良くそうしないとしても少数なので各個撃破できると判断していたが、杉氏問田氏6月27日早朝手勢率いて坂の上勝手に襲撃しようとした。しかし、・問田勢1,500騎の朝駆け熊谷香川勢に見抜かれてしまい、伏兵により返り討ちにされている。 7月3日城兵3,000と共に籠城していた光和は、城外出て大内大軍戦った武田軍少数であった奮戦し日暮れまで勝敗決しなかった。この戦いでは、怪力知られる光和自身兵士たちと共に最前線戦って武勇誇ったとの伝説残っている。 一方元就からの急使により大内軍の安芸攻め知った経久は、伯耆から出雲飯石郡赤穴まで引き返し救援軍5,000派遣尼子方に属していた元就初めとする安芸国人衆引き連れ大内軍と対峙した。7月10日大内軍と尼子軍合戦が行われ、牛尾氏亀井氏率いていた尼子氏直属軍勢先陣として戦うが、義隆の初陣士気の高い大内軍が第2陣平賀氏宍戸氏三吉氏宮氏軍勢)まで撃ち破って勝利した。この時元就は、吉川小早川熊谷香川三須の手と共に尼子軍第3陣として控えていた。 8月5日の夜、尼子軍悪天候突いて夜襲行った。この夜襲は、元就提案により行われたもので、夜襲部隊元就加えて熊谷信直香川光景三須房清などの安芸国人衆中心に編成されていた。襲撃受けた大内陣営520余名討たれた(毛利軍被害20余名とされる)ため、義隆の初陣に泥を塗らせないために同月10日大内軍は撤退した

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