伝・新田義貞所用の兜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 14:39 UTC 版)
鉄製銀象眼冑は、藤島神社の所蔵品の中でも特に神社の由緒と関連が深く、福井藩主の松平家に献上されてから同家が長く所有することとなったが、明治10年(1877年)5月に藤島神社に奉納された。明治33年(1900年)に旧国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定され、昭和25年(1950年)の文化財保護法施行後は国の重要文化財となっている。 兜鉢は四十二間筋兜の形式で、表面を錆地に仕上げ、筋の間に三十番神の神号や経文を刻み、通常は鍍金板で仕立てる八幡座・篠垂・桧垣といった飾金具も鉄板で作り、矧板の表の縁を捻り返して巻き込み筋覆輪に見せた上で、各所に唐草文の銀象嵌を施すといった、手の込んだ技法で製作されているが、それらの特徴は鉢の形状などを含め、新田義貞らが活躍した南北朝期を大きく下らねば出現しないものである。また、鉢裏には「元応元年」や「相模国」の銘があるとされているが、実際には線刻が不鮮明で解読できず、そもそも兜鉢には土中に潜っていた形跡自体が認められない。 よって、山上八郎をはじめとする甲冑研究者たちは、甲冑製作技法の時代変遷や地域ごとの特色を基に、同兜鉢は室町時代に流行した総覆輪阿古陀形筋兜の形式を継承しつつ、次代に登場する鉄錆地後勝山形筋兜へ移行する過渡期の特徴を有する、室町時代晩期の作品であると断じ、戦国時代に小田原の後北条氏に招聘された明珍系統の甲冑師が製作した、「小田原鉢」と呼ばれる兜の一例と鑑定している。 なお、藤島神社にはかつて同兜鉢に取り付けられていた錣と受張も伝来しており、それらに付属する由緒書によれば、兜は神社への奉納前は松平春嶽が所用した「魚鱗具足」(福井市立郷土歴史博物館寄託越葵文庫のうち)に添っていたが、霊代として兜鉢のみが納められることになったため錣と受張が外され、兜鉢奉納の1か月後にそれらも改めて納められたという。
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