会話の中の認識性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 10:02 UTC 版)
会話分析で言われている一般原則の一つに、「相手が既に知っていることを言わない」というルールがある。わたしたちは、このルールに則っており、例えば、ある友人が婚約したことを知り、それを共通の友人にそれを伝えようとする時、「ねえ、Aちゃんの話聞いた?」と切り出して、相手が既にその婚約のニュースを知っているかどうか確かめることがある(参照3-2-1:先行拡張連鎖)。そこで相手が「知ってる」というか「まだ知らない」というかによって、私たちは婚約のニュースの持ち出し方を変えていくだろう。 こうした相手の知識状態に対する配慮は、会話をしている相手に対する配慮の一つの側面を担っている。またお互いに「何を知っているか」や「誰に聞いて知っているか」などを相手の知識状態に照らし合わせながら、相手の知っている度合いに合わせたり、その知識を主張する権利が自分にあるかどうかということの管理も会話上で行ったりしている。つまり私たちは常にこうした相手の知識状態への配慮を、発話の組み立て方によって示しており、それぞれの知識の領域に配慮しているのである。相手が既に見たと言っている映画について、私たちは、「おもしろいよ」とは言わず、「おもしろいよね」という具合に、相手がその映画に対する知識を持っていることを前提として感想を述べるだろう。 また、こうした相手との相対的な知識状態を踏まえ、どの程度自分が知っているか主張する態度は認識的態度と呼ばれる。たとえば、誰かに質問する時に、「結婚していますか」と聞くのと、「結婚していますよね」と聞くのとでは、どれだけ質問内容に関して確信があるのか、つまり質問する相手に関して知っているかを示す度合いが違ってくる(この場合は相手に関する質問なので、相手の知識の領域内で自分がどのような聞き方をするかの判断をしているといえる)。もちろん、どのような主張をするかは、その都度会話の中で決まっていく。時には、知っていることも知らないふりをすることもあるだろう。重要なのは、私たちはそうしたやり方を理解していることだ。参与者たちは、会話の中で相対的な知識状態をたえず微調整しながら発話をしている。 英語では、自分の知識状態を主張する手段の一つとして、文の種類(平叙文、疑問文、付加疑問文、否定疑問文)がある。例えば、確信を持っている態度を示すときには、疑問文ではなく平叙文が用いられる。日本語では、「ね」や「よね」といった終助詞を使って知識状態を表現することができることが確認されている。またこうした参与者間の相対的な知識状態は、ある行為をどのように表現するかといった局所的な問題にも、行為連鎖をどのように組織するかといった全体的な問題にも影響を及ぼすと言われている。
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