伍長勤務上等兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 00:10 UTC 版)
伍長勤務上等兵は、兵でありながら下士官と同じ勤務に就いた。たとえば週番下士官や将校集会所当番長などである。戦時であれば分隊長となる。なお伍長勤務上等兵と後年の兵長とを同一視する見方は間違いである。兵長には定員が無かったが、伍長勤務上等兵は中隊に2-3名と定員があった。(定員は固定されたものではなく、下士官に欠員ができた時に伍長勤務を優秀な上等兵に命じたから、年度により各部隊に於ける伍長勤務の数は変動した。)この制度の起源は明治時代の長期伍長、短期伍長制度にさかのぼる。当時は在営3年制で、2年兵の上等兵より抜擢して短期伍長とし、3年目を下士官として勤務させ満期で除隊させた。長期伍長は職業軍人を指した。その後、この制度は廃止されて伍長勤務上等兵制度となり、長期伍長が「伍長」となり、育成は下士官候補者制度に移行した。 伍長勤務制度の目的は、戦時に急増する部隊の下級下士官の代理を確保し、必要に応じて下級下士官へ登用できるようにすることであった。判任官であり兵より俸給も高く、定員があってしかも2年で使い捨てにできない下士官を平時に多数抱えることはできなかった。時代によっては下士官を希望するものが少なく必要な下士官が不足した。この不足を補うと同時にある程度の下士官勤務経験を積ませることによって、戦時に登用する下士官(予備下士官)の候補者を育成したのである。予備下士官の公式な登用制度は幹部候補生制度(昭和8年以降は乙種幹部候補生)であったが、学校教練合格や一定の学歴要件を必要とし、受験資格を持つものは多くなかった。陸軍は、伍長勤務という下士官勤務のOJTによって、幹部候補生を受験できない者にも予備下士官への道を開いていたといえる。 なお、ドイツのアドルフ・ヒトラーの最終階級であるGefreiterは日本語では伍長と訳されることが多いが、実際の位置付けは日本陸軍の上等兵に相当する。 伍長勤務上等兵になると、左の腕に赤と金モールの山形章を付ける。これを俗に金蝶じるしといい、軍隊俗謡などに「腕に金蝶ヒラヒラさせて、粋じゃないかよ 伍勤が通る」と歌われた。 あるいは、同じ兵の身分でありながら特別扱いをされる伍長勤務上等兵には同年兵からの嫉妬もあり、「生意気」と反発される事も多かったようである。 ナッチョラン節に「下士官のそば行きゃメンコ臭い 伍長勤務は生意気で 粋な上等兵にャ金が無い 可愛い新兵さんにゃ 暇が無い」と歌われている。 1940年9月に兵長の階級が新設されるに伴い、伍長勤務上等兵制度は廃止となった。
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