伊江島の住民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 16:41 UTC 版)
沖縄戦における伊江島の戦いは1945年4月16日に始まった。島民総動員で建設され、当時東洋一と称された帝国陸軍伊江島飛行場は、逆に米軍の激しい攻略戦の標的となり、21日までの6日間の戦闘で住民を含む4,700人余が死亡。スパイとなることと道義であった投降という選択肢はなく、追い詰められた住民の集団自決(強制集団死)や、日本兵による虐殺事件なども発生し、住民の約半数の1,500名が命をおとした。 米軍は島を占領し、直ちに日本軍の飛行場を整備拡大して米軍伊江島補助飛行場の建設に入った。捕虜となった住民は慶良間諸島の渡嘉敷や座間味に、あるいは大浦湾収容所に収容された。まだ降伏してもいない日本軍が潜伏する渡嘉敷島に送られた伊江島住民のなかには、日本軍海上挺進第3戦隊 (赤松隊) にスパイとして殺害 (男女6人) されるという事例もあった。大浦崎収容所内では西側の地区に収容された。伊江島へ帰村が許可されたのは、沖縄戦から2年後の1947年3月になってからだった。 「 そのうち、アメリカ軍に捕まり、その指示で、今帰仁村の兼次部落に移住した。伊江島から持ち出してきた衣類などの家財は、何回もの移動のたびに捨ててきたので、そのころは全くの着のみ着のままになっていた。今帰仁に着いて三日目の朝、部落の大通りに集められ、アメリカ軍によって久志村大浦崎に連行された。大浦崎の何にもない野原で、数世帯に一つのテントがあてがわれただけで、そこに住むよう指示された。水もなく、米の配給はあったが、鍋も食器もなく、アメリカ軍の塵捨て場から空き缶を拾ってきてそれを使った。その上、マラリアが流行した。沢山の人が死んだ。食糧も十分でなく、アメリカ兵にクギブ、ミー。ギブ、ミーんと物乞いをするありさまであった。 」 —伊江島 小学生の体験(沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)より)
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