仁徳系統は本当に断絶していたのか?
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 20:46 UTC 版)
「継体天皇」の記事における「仁徳系統は本当に断絶していたのか?」の解説
『日本書紀』、『古事記』、共に仁徳系統の断絶を強調している。本当に仁徳系統の男子が絶滅したのであれば、応神系統の男大迹王の即位は、血統の上からも正当化される。しかし、仁徳天皇には五人の男子(履中天皇、住吉仲皇子、反正天皇、允恭天皇、大草香皇子)がいたと『記·紀』には記されている。仁徳から武烈まで世代でいうと、四世代にもなる。一夫多妻であった当時において、仁徳系の男子が全て絶えてしまったいうのは信じ難い。 事実『記·紀』の記事を読むと、継体朝以後も生存していた可能性のある仁徳系統の男子王族の名前が確認される。『日本書紀』「顕宗即位前紀」にみえる「橘王」である。 「弘計天皇(顕宗天皇)は、大兄去来穂別天皇(履中天皇)の孫也。市辺押磐皇子の子也。母荑媛と曰す。譜第に曰く、市辺押磐皇子、蟻臣女荑媛を娶りて、遂に三男二女を生む。其の一、居夏姫と曰ふ。其の二、億計王(仁賢天皇)と曰ふ。更の名、嶋の稚子。更の名、大石尊。其の三、弘計王(顕宗天皇)と曰ふ。更の名、来目稚子。其の四、飯豊女王(飯豊青皇女)と曰ふ。亦名、忍海部女王。其の五、「橘王」と曰ふ。」 この記事によると、仁賢天皇、顕宗天皇の弟に「橘王」という男王が居たことがわかる。武烈天皇の叔父に当たる人物で、男大迹王よりも、血統的には正当な後継者である。 しかし、橘王や男大迹王よりも、さらに正当な皇位継承者が居る。『古事記』「仁賢記」に仁賢の子で「武烈天皇の弟」としてみえる「真若王」である。 「天皇(仁賢)、大長谷若建天皇(雄略天皇)の御子、春日大郎女を娶りて生める御子。高木郎女。次、財郎女。次、久須毘郎女。次、手白髮郎女(手白香皇女)。次、小長谷若雀命(武烈天皇)。次、「真若王」。」 『日本書紀』「仁賢紀」には「真若王」の名は見えないが、これに相当する名として仁賢の皇女に「真稚皇女」として女性としている。この人物に関して『記・紀』の間に所伝の食い違いが認められる。「仁賢紀」は仁徳系統男子の断絶を強調するために、意図的に皇女に改鼠した可能性もある。これらの人物は、実在すれば五世紀末から六世紀初頭に在世年代を比定しうる武烈の崩後も生存していた可能性が有る仁徳系統の男王である。既述のように、一夫多妻であった当時において、武烈の死によって仁徳系の男王が全て絶えてしまったというのは、応神五世孫の男大迹王の即位を正当化する為の造作でないか?との疑いが残るのは事実である。
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