久秀滅亡とは? わかりやすく解説

久秀滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 04:58 UTC 版)

柳生宗厳」の記事における「久秀滅亡」の解説

元亀3年1572年4月宗厳主君松永久秀三好義継織田信長との対決姿勢明確にする。信長反抗する勢力には将軍足利義昭等も加わり信長包囲網一時信長圧倒するも、やがて劣勢となって元亀4年1573年11月に義継は居城攻められ自害し、久秀は降伏して信長臣従した。 久秀が信長屈して以降宗厳動向はっきりせず柳生村史『柳生の里』は足利義昭放逐による幕府崩壊機に天正元年以降一切係累断って柳生谷に身を隠したとし、柳生厳長も『正伝新陰流』で同意する一方で歴史学者高柳光寿本願寺下妻頼興から宗厳送られ伊勢長島長島一向一揆)との取次ぎ依頼する書状天正2年1574年)のものと推定し依然として久秀の配下にあって信長対立する本願寺通じてたとする。その他、織田家宿将柴田勝家から送られ柳生但馬守宛て書状では、宗厳多聞山城において嫡男柳生厳勝と共に勝家面会したことが記されているが、高柳はこれを天正3年1575年)頃のものと推定している。 天正4年1576年宗厳47歳の時、信長大和守護を久秀の仇敵筒井順慶任じると、翌天正5年1577年)、久秀は信貴山城籠城して再び信長反抗し同年10月信長嫡男織田信忠総大将とする軍勢包囲され自害した。久秀が滅ぶと、大和一円筒井氏支配のもとにおかれた。江戸時代中期成立した玉栄拾遺』など宗厳長男・厳勝が筒井順慶仕えてたとする文書もあるものの、柳生家保管する書状中にこの時期筒井順慶から宛てられたものは無く歴史学者天野忠幸筒井家臣従していた様子はないとする同時期、宗厳は元関白近衛前久へ「表裏疎意無く奉公する」ことを希望して誓紙提出したことが前久の書状明らかになっている。前久は正月22日の上民部大輔宛てた書状で、この宗厳申し出について「感悦至り」と感想記しているが、前久は信長死去した天正10年1582年以降畿内離れていた期間があり、臣従いつ頃まで続いたかは定かではない。 またこの頃より兵法家として活動した形跡史料の上でも確認できるようになり、天正7年1579年)に三好左衛門尉宛て印可状発行したのをはじめとして複数目録印可状残している。

※この「久秀滅亡」の解説は、「柳生宗厳」の解説の一部です。
「久秀滅亡」を含む「柳生宗厳」の記事については、「柳生宗厳」の概要を参照ください。

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