久秀滅亡
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元亀3年(1572年)4月、宗厳の主君・松永久秀と三好義継は織田信長との対決姿勢を明確にする。信長に反抗する勢力には将軍・足利義昭等も加わり(信長包囲網)一時は信長を圧倒するも、やがて劣勢となって元亀4年(1573年)11月に義継は居城を攻められて自害し、久秀は降伏して信長に臣従した。 久秀が信長に屈して以降の宗厳の動向ははっきりせず、柳生村史『柳生の里』は足利義昭の放逐による幕府崩壊を機に、天正元年以降は一切の係累を断って柳生谷に身を隠したとし、柳生厳長も『正伝新陰流』で同意する。一方で歴史学者の高柳光寿は 本願寺の下妻頼興から宗厳に送られた伊勢の長島(長島一向一揆)との取次ぎを依頼する書状を天正2年(1574年)のものと推定し、依然として久秀の配下にあって信長と対立する本願寺と通じていたとする。その他、織田家の宿将・柴田勝家から送られた柳生但馬守宛ての書状では、宗厳が多聞山城において嫡男・柳生厳勝と共に勝家と面会したことが記されているが、高柳はこれを天正3年(1575年)頃のものと推定している。 天正4年(1576年)宗厳47歳の時、信長が大和の守護を久秀の仇敵・筒井順慶に任じると、翌天正5年(1577年)、久秀は信貴山城に籠城して再び信長に反抗し、同年10月信長の嫡男織田信忠を総大将とする軍勢に包囲され自害した。久秀が滅ぶと、大和一円は筒井氏の支配のもとにおかれた。江戸時代中期に成立した『玉栄拾遺』など宗厳の長男・厳勝が筒井順慶に仕えていたとする文書もあるものの、柳生家が保管する書状の中にこの時期に筒井順慶から宛てられたものは無く、歴史学者の天野忠幸は筒井家に臣従していた様子はないとする。 同時期、宗厳は元関白・近衛前久へ「表裏疎意無く奉公する」ことを希望して誓紙を提出したことが前久の書状で明らかになっている。前久は正月22日付の上野民部大輔に宛てた書状で、この宗厳の申し出について「感悦の至り」と感想を記しているが、前久は信長が死去した天正10年(1582年)以降畿内を離れていた期間があり、臣従がいつ頃まで続いたかは定かではない。 またこの頃より兵法家として活動した形跡が史料の上でも確認できるようになり、天正7年(1579年)に三好左衛門尉宛てに印可状を発行したのをはじめとして、複数の目録、印可状を残している。
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