中立派の分裂
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しかしジュネーブ協定の結果として、1962年11月にはソ連による中立派軍への空輸は停止された。そこで、プーマ首相はアメリカによる物資供給に頼ることになり、これはパテート・ラーオおよび中立派内の左派グループから批判された。とりわけ、コン・レーの右腕であり、アメリカとの物資供給に関する合意を取りまとめた参謀総長ケッサナー・ウォンスワン大佐が批判の矛先となった。 1962年11月27日、シエンクワーン飛行場(英語版)の南西3.5マイル地点において、中立左派ドゥアン・スンナラート大佐の指揮下の対空部隊がエア・アメリカの輸送機を撃墜する事件が起きた。ケッサナー大佐はこれに関与した人物を逮捕しようとしたが、パテート・ラーオに阻止されてしまう。 翌1963年2月12日にはケッサナー大佐が暗殺され、コン・レーは容疑者を逮捕するとともに、パテート・ラーオ幹部とドゥアン部隊の中立派領域への進入を禁止した。同年3月半ばまでに中立派の分裂は決定的となり、ドゥアン大佐は配下の部隊とともに中立派を離脱し、これにポンサーリー(英語版)のカムアン大佐が合流して、中立左派「愛国中立勢力」を形成した。 1963年3月31日、ついにコン・レー軍と中立左派軍の間で軍事衝突が勃発し、4月1日には中立左派と見られていたキニム・ポンセーナー(英語版)外相が、ケッサナー大佐の報復として暗殺された。以後、ヴィエンチャンは暗殺の連鎖となり、身の危険を感じた左派閣僚はジャール平原に脱出した。ここに第2次連合政府は事実上崩壊する。 4月20日、シエンクワーンの飛行場が中立左派軍とパテト・ラーオ軍に奪われた。その後もコン・レー軍は撤退を重ね、やがてジャール平原の西側3分の1の地域に押し込められた。 さらにコン・レーとプーマが進めた右派政府軍への性急な統合が、中立派軍内の反発を招くことになった。1964年4月には「数百人の兵士」が離脱し、5月16日にはコンレー軍11個大隊の内6個大隊がドゥアン派に離脱した。 5月中旬、コン・レー軍はジャール平原においてパテート・ラーオ軍の総攻撃に遭い、西端のムアンスイを残し、全域を支配されるに至った。
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