中立派の分裂とは? わかりやすく解説

中立派の分裂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/08 23:24 UTC 版)

コン・レー」の記事における「中立派の分裂」の解説

しかしジュネーブ協定結果として1962年11月にはソ連による中立派軍への空輸停止された。そこで、プーマ首相アメリカによる物資供給に頼ることになり、これはパテート・ラーオおよび中立派内の左派グループから批判された。とりわけコン・レー右腕であり、アメリカとの物資供給に関する合意取りまとめ参謀総長ケッサナー・ウォンスワン大佐批判矛先となった1962年11月27日、シエンクワーン飛行場英語版)の南西3.5マイル地点において、中立左派ドゥアン・スンナラート大佐指揮下の対空部隊エア・アメリカ輸送機撃墜する事件起きた。ケッサナー大佐はこれに関与した人物逮捕しようとしたが、パテート・ラーオ阻止されてしまう。 翌1963年2月12日にはケッサナー大佐暗殺されコン・レー容疑者逮捕するとともにパテート・ラーオ幹部ドゥアン部隊中立派領域への進入禁止した同年3月半ばまでに中立派の分裂は決定的となり、ドゥアン大佐配下の部隊とともに中立派離脱し、これにポンサーリー英語版)のカムアン大佐合流して中立左派愛国中立勢力」を形成した1963年3月31日、ついにコン・レー軍と中立左派軍の間で軍事衝突勃発し4月1日には中立左派見られていたキニム・ポンセーナー(英語版外相が、ケッサナー大佐報復として暗殺された。以後ヴィエンチャン暗殺連鎖となり、身の危険感じた左派閣僚ジャール平原脱出した。ここに第2次連合政府事実上崩壊する4月20日、シエンクワーンの飛行場中立左派軍とパテト・ラーオ軍に奪われた。その後コン・レー軍は撤退重ね、やがてジャール平原西側3分の1地域押し込められた。 さらにコン・レープーマ進めた右派政府軍への性急な統合が、中立派内の反発を招くことになった1964年4月には「数百人の兵士」が離脱し5月16日にはコンレー11大隊の内6個大隊ドゥアン派に離脱した5月中旬コン・レー軍はジャール平原においてパテート・ラーオ軍の総攻撃遭い西端のムアンスイを残し全域支配される至った

※この「中立派の分裂」の解説は、「コン・レー」の解説の一部です。
「中立派の分裂」を含む「コン・レー」の記事については、「コン・レー」の概要を参照ください。

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