中村屋創業後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 08:59 UTC 版)
勤め人を嫌った愛蔵の意向で1901年に、本郷にあった小さなパン屋「中村屋」を従業員ごと買い取り、開業。1904年にはクリームパンを発明した。1907年には新宿に移転、1909年には新宿駅近くで開店した。 夫とともに、中華饅頭、月餅、インド式カリー等新製品の考案、喫茶部の新設など本業に勤しむ一方で、絵画、文学等のサロンをつくり、荻原碌山、中村彝、高村光太郎、戸張弧雁、木下尚江、松井須磨子、会津八一らに交流の場を提供し、「中村屋サロン」と呼ばれた。また、岡田式静座法を信奉し、10年間一日も欠かさず静坐会に出席した。 黒光は、愛蔵の安曇野の友人である荻原碌山の支援者となり、碌山の作品『女』像は黒光をモデルとしたものだと言われている。また、亡命したインド独立運動の志士ラース・ビハーリー・ボースらをかくまい、保護した。1918年に長女 俊子がボースと結婚した。そのほか、ロシアの亡命詩人ワシーリー・エロシェンコを自宅に住まわせ面倒をみ、ロシア語を学んだりした。夫が死去した翌年の1955年、78歳で死去した。 子供の友人に朝日新聞社で編集局長・専務を務めた信夫韓一郎がいた。青春時代の若かりし頃、実父と折り合いが悪く家出同然の生活を送っていた信夫にとって、黒光はよき理解者であり話相手であった。信夫は超が付く程の冠婚葬祭嫌いとして知られる人物であったが、黒光の病気が悪くなると、「黒光さんの葬式だけは逃げられない」と言って礼服を作り、周囲を大いに驚かせたという。
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