中川昭一との対立・当選による追加公認
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「鈴木宗男」の記事における「中川昭一との対立・当選による追加公認」の解説
1983年(昭和58年)1月9日に中川が53歳で死去すると、同年12月第37回衆議院議員総選挙で中川が生前に立候補していた中選挙区時代の北海道5区(定数5)から、自民党の公認を得られず保守系無所属で立候補。9人立候補者がいたが、自民党の公認を得た中川の長男である昭一(一位当選)と骨肉の争いを演じ、激戦の末共に4位で35歳で初当選(当選同期には田中直紀・熊谷弘・二階俊博・野呂田芳成・衛藤征士郎・金子原二郎・田中秀征・尾身幸次・北川正恭・町村信孝・自見庄三郎・大島理森・野呂昭彦・甘利明など)。初当選後、自民党の中曽根康弘総裁から追加公認され、自民党に入党した。 魚住昭の『渡邉恒雄 メディアと権力』(講談社)によると、昭一が立候補していたため、読売新聞グループの渡邉に立候補を断念するよう迫られ、鈴木が断るとマスメディアに大々的に鈴木批判の記事が掲載されたという。また同書によれば、鈴木側は「中川先生は世襲に否定的であった」という大義を下に出馬を決断したとしている。中選挙区時代の北海道5区は、定数5に対し日本社会党が(単独推薦を含め)最後まで3人の候補を立て続けた唯一の選挙区(3人当選する場合もあった)であった。社会党は3人に地盤を三分させ、釧路市を地盤にした候補には岡田利春がいた。昭一との遺恨、自ら「中川一郎先生の応援をえて最年少道議として政界デビュー」と語る保守系無所属の武部勤の参戦もあって、毎回自民3候補(鈴木が当選してからは4候補)対社会党3候補の激戦が、日本一面積の広い選挙区(都道府県面積第2位の岩手県よりも広く、四国一島に相当)で繰り広げられた。 1989年(平成元年)6月に宇野内閣で防衛政務次官に就任。同年8月の海部内閣で防衛政務次官2期目を務める。
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