中国上映
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 05:28 UTC 版)
1940年直後、満州国・北京・上海等、中華民国の日本占領地域で上映されたが、「支那」という言葉が問題のため、「上海之夜」として上映された地区もあった。 1943年の北京市での記者会見で、李香蘭は本作を含む大陸三部作について「あれらの映画は、中国を理解していないどころか、侮辱している」「あなたは中国人でしょう? それなのに、なぜ、あのような映画に出演したのですか」と李香蘭を中国人と信じる中国人記者から咎められ、中国人名を名乗ることで結果的に中国人を騙すことに罪悪感を感じていた李香蘭はこれをきっかけに満映退社を決意する。 その一方、1943年2月上海でのリバイバル上映時(タイトル「春的夢」)には現地で主題歌が流行していた為、13日間約2万3千人の観客(中国人が9割)を動員。「観客が主題歌を和して歌う」現象が起き、雑誌「大華」には「私みたいな映画ファン兼音楽ファンにとって、『支那の夜』は紛れもなく宝のような作品だ」という中国人観客の投書が寄せられた。 しかし映画の批評は「この映画で彼女(李香蘭)が日本人からさんざん恩を売られ、日本人にだけ都合のいいアイドルの役に甘んじていることを快く思わなかった」という事で厳しかった。
※この「中国上映」の解説は、「支那の夜」の解説の一部です。
「中国上映」を含む「支那の夜」の記事については、「支那の夜」の概要を参照ください。
- 中国上映のページへのリンク