下毛野における古墳の大規模化とは? わかりやすく解説

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下毛野における古墳の大規模化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 09:08 UTC 版)

毛野」の記事における「下毛野における古墳の大規模化」の解説

古墳時代中期上毛野古墳大型化した一方下毛野では古墳の数減少していた。しかし6世紀前半入り思川流域において摩利支天塚古墳琵琶塚古墳という新興勢力による大型前方後円墳2基が築かれた。琵琶塚古墳墳丘長約123メートル摩利支天塚古墳117メートルで、6世紀初めから前半下毛野ではこの地域での最大墳丘時代迎えた一説では、この新興勢力出現をもって下毛野」となし、「旧来の毛野」を「上毛野」と呼び分けとされる小山市間々田千田古墳直径70メートル円墳6世紀築造とされている。その付近では凝灰岩造られ家形石棺発掘された。これは大谷石系の石材利用した最古遺品とされ、鹿沼市深岩石切場切り出されたものと推定されている。深岩凝灰岩思川姿川水系によって運搬され下毛野終末期古墳国分寺基壇にも使用された。 しかし摩利支天塚古墳琵琶塚古墳のような大型古墳2代終わり、代わってやや北方壬生町南部に、両古墳とは性格異なる「下野古墳」と呼ばれる独特の前方後円墳群が築かれた。この古墳特徴として、石室後円部でなく前方部にあり、墳丘基壇の上造られている。これら下野古墳に関しては、下毛野氏一族の墓とする解釈がある。また、古墳群山王塚古墳6世紀末から7世紀初頭)まで続いたのち円墳変化することから、この頃ヤマト王権東国支配完了し下毛野氏一族中央に居を移した指摘される。のちこの周辺には、下野国国府国分寺営まれた。 下毛野主な古墳 摩利支天塚古墳小山市) - 5世紀末から6世紀初頭墳丘長約117メートル栃木県第3位琵琶塚古墳小山市) - 6世紀前半墳丘長約123メートル栃木県第2位下野古墳吾妻古墳栃木市壬生町) - 墳丘長約127.85メートル栃木県第1位)。 国分寺愛宕塚古墳壬生町) - 墳丘長約75メートル茶臼山古墳 (壬生町) - 墳丘長約75メートル山王塚古墳 (下野市) - 墳丘長約50メートル

※この「下毛野における古墳の大規模化」の解説は、「毛野」の解説の一部です。
「下毛野における古墳の大規模化」を含む「毛野」の記事については、「毛野」の概要を参照ください。

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