上田蚕糸専門学校長
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長野県に蚕糸専門学校の設置が計画されると、1908年(明治41年)8月創立委員長に任命され、1910年(明治43年)5月米沢高等工業学校長事務取扱として必要な設備等を調査し、8月13日上田蚕糸専門学校長に就任した。専門学校では絹糸紡績科・教婦養成科の新設に関わったほか、柔道・剣道などの武道教育に力を入れた。 1918年(大正7年)2月教授勝木喜董の解任に対し、養蚕科1年生岸本元治・山本岩三郎・間宮成吉等が反発し、革命団と称して校長刷新を求めストライキを起こした。ストは1週間で終息し、4月勝木喜董は離職した。 1924年(大正13年)朝鮮・関東州・満州の蚕糸業を視察して有望と見込み、卒業生の大陸への就職に力を入れた。1936年(昭和11年)、1940年(昭和15年)にも満州を訪れている。 1927年(昭和2年)8月東京朝日新聞により盛岡高等農林学校へ転任内定と誤報され、卒業生により留任運動が行われた。 1937年(昭和12年)の勲一等瑞宝章受章を機に、1938年(昭和13年)3月31日校長を辞職し、井上柳梧が後任に就いた。
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