正親町三条実躬
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時代 | 鎌倉時代 |
生誕 | 文永元年(1264年) |
死没 | 文保元年(1317年)以降 |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 亀山天皇→後宇多天皇→伏見天皇→後伏見天皇→後二条天皇→花園天皇 |
氏族 | 正親町三条家 |
父母 | 父:正親町三条公貫、母:藤原為経の娘 |
兄弟 | 実仲、実躬、公勝、実暁、女子、女子(正親町実明室)、女子、女子(正親町実明室) |
妻 | 聖海の娘 |
子 | 公秀、光明天皇後宮 |
正親町三条 実躬(おおぎまちさんじょう さねみ)は、鎌倉時代の公卿。権大納言・正親町三条公貫の三男。官位は正二位・権大納言。正親町三条家4代。
経歴
大覚寺統に仕え、1285年(弘安8年)正四位下右近衛権中将、1295年(永仁3年)に蔵人頭、1298年(永仁6年)に参議。1303年(嘉元元年)に従二位、同年10月末に中納言になるも、1305年、(嘉元3年)3月に辞任に追い込まれる。1316年(正和5年)に権大納言に任じられたが、翌1317年(正和6年)に出家し、法名を実円と号した。出家後の消息は不明。
鎌倉時代の貴重な日記史料『実躬卿記』を著しており、自筆本だけでも70巻余りが現存し、その大半は重要文化財に指定されている。1287年(弘安10年)、幕府が後宇多天皇から熈仁親王への皇位交代を申し入れて来た際、その横暴を「末代作法口惜事也」(末代の作法、口惜しき事なり)と歎じたことがよく知られている。
官歴
『公卿補任』による
- 文永2年(1265年) 正月5日:叙爵(従五位下)
- 文永6年(1269年) 正月5日:従五位上
- 文永8年(1271年) 10月15日:正五位下
- 文永10年(1273年)閏5月19日:右兵衛佐
- 建治3年(1277年) 正月5日:従四位下。5月14日:左近衛少将
- 弘安元年(1278年) 4月11日:右近衛少将
- 弘安2年(1279年) 11月13日:従四位上
- 弘安6年(1283年) 8月8日:正四位下
- 弘安8年(1285年) 6月6日:兼下野権介。6月13日:右近衛中将
- 正応4年(1291年) 3月25日:兼美作介
- 永仁3年(1295年) 6月23日:蔵人頭
- 永仁5年(1297年) 6月7日:止頭。閏10月23日:還蔵人頭
- 永仁6年(1298年) 6月23日:参議。7月21日:従三位
- 永仁7年(1299年) 正月5日:正三位。3月24日:兼備中権守
- 乾元2年(1303年) 閏4月5日:従二位
- 嘉元元年(1303年) 10月29日:権中納言
- 嘉元3年(1305年) 3月8日:辞権中納言
- 延慶2年(1309年) 4月14日:正二位
- 延慶3年(1310年) 3月9日:按察使
- 正和4年(1315年) 12月15日:止按察使
- 正和5年(1316年) 正月13日:兼民部卿。7月2日:権大納言
- 文保元年(1317年) 2月24日:出家(法名実円)
系譜
参考文献
- 菊地大樹 「中世一貴族の慨嘆」(東京大学史料編纂所篇 『日本史の森をゆく』 中央公論新社〈中公新書2299〉、2014年12月20日、pp.111-115、ISBN 978-412-102299-8
関連事項
- 正親町三条家
- 実躬卿記
脚注
固有名詞の分類
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