三条塚古墳の特徴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/11 11:17 UTC 版)
三条塚古墳からは埴輪が検出されておらず、6世紀末、前方後円墳最終段階に築造されたとする説が強い。ただし1989年に出土した須恵器の形態は、金鈴塚古墳から出土したものよりも古いタイプのもので、横穴式石室も一部に切石が用いられている金鈴塚古墳と異なり、自然石を用いて造られている。また墳丘の形態は埴輪が検出されている稲荷山古墳の方が新しいとの見方もあり、前方後円墳築造の最終段階の古墳である可能性は高いが、疑問も残っている。 しかし一般的には埴輪が検出されていないことから、現在のところ内容が不明確である青木亀塚古墳を除き、三条塚古墳は内裏塚古墳群内に5つある、墳丘長100メートルを越える大型古墳の中では6世紀末、最後に築造された古墳とされている。前方後円墳の築造最終段階の古墳としては、墳丘長約100メートルとされる金鈴塚古墳や、約112メートルの埼玉県にある小見真観寺古墳などの規模を上回る当時の東日本最大級の古墳であり、大王陵との説もある見瀬丸山古墳、梅山古墳に次ぐ規模の古墳であることが注目される。 金鈴塚古墳が所属する祇園・長須賀古墳群や埼玉古墳群などと同じく、内裏塚古墳群は100メートルを越える地域を代表する首長を葬った古墳があり、そしてそれに次ぐ墳丘長70メートル前後の古墳に葬られた首長がいて、そしてその下に位置する首長たちは円墳に葬られているという階層構造が見られる古墳群である。三条塚古墳の場合、北側に同時期に造られたと考えられる前方後円墳である蕨塚古墳があり、三条塚古墳と同じ方向を向いて築造されている。内裏塚古墳群にある後期の大型古墳である九条塚古墳、稲荷山古墳にも近くに同様の前方後円墳があって、大型古墳に従属する古墳と見られている。 三条塚古墳の被葬者は小糸川流域というその位置から、須恵国造との関係性が指摘されている。須恵国造とも考えられる三条塚古墳の被葬者は地域の中小の首長を従え、隣の馬来田国造とも考えられる祇園・長須賀古墳群を造った首長や、埼玉古墳群を造った首長など関東各地の首長との連携を進め、三条塚古墳の大きさからもヤマト王権内での力も強めていたことが想定される。
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