三条夫人の墓所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 07:30 UTC 版)
「円光院 (甲府市)」の記事における「三条夫人の墓所」の解説
円光院には武田晴信(信玄)室の三条夫人の墓所が所在する。史跡名は「武田晴信室三条氏之墓」。 「円光院文書」によれば、三条夫人は元亀元年(1570年)7月28日に死去した。現在の墓所は人為的な版築・盛土などが確認されず、山裾を開削し平場を造成し、墓所を造営したと考えられている。近世初頭の慶長8年(1603年)3月1日付徳川家四奉行判物では墓所の造営が行われていたことが確認される。江戸中期には現存する石灯籠2基に享保3年(1718年)9月17日の年記があることから、没後150年忌を契機に整備が行われたと考えられている。 明治期には墓所を写した古写真が残り、宝篋印塔の向きや、相輪・笠が入れ替わるなど現在とは異なる姿をしており、数次にわたる組み直しが行われていたことが確認される。 三条夫人墓所は一基の宝篋印塔、二基の石灯籠で構成される。宝篋印塔は現存高121センチメートル(基礎下部から相輪上部)。基礎は上部三段で、正面と南側面には枠内に格狭間が、その内部に連子が掘られる。山梨県内では同様の様式として南巨摩郡南部町中野の長谷寺跡の穴山信嘉(信邦、永禄9年(1566年)死去)の事例が知られる。基礎の下には三段の台石があるが当初の姿であったかは不明。左側の石灯籠が高さ124.4センチメートルであるため、宝篋印塔の威容を整えるため台石を積み足したとも考えられている。 相輪は16世紀の宝篋印塔の特徴として太い形状。宝珠上部が欠損し、九輪の中間部で折れている。柄・柄穴で笠部と連結し、笠下部には請花・反花が刻まれている。相輪は軒上五段、軒下三段で、隅飾突起はニ弧で外反している。笠の一部も同様に破損している。 塔身四面には枠内に「大日」と刻まれ、塔身上面の左側(南側)には「+」の線刻が掘られており、当初は左面が正面であったと考えられている。山梨県内において塔身に「大日」と掘られる点は類例が見られない。
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