三区の合意
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 02:22 UTC 版)
詳細は「イリ事変」および「北塔山事件」を参照 当初イリハン・トレに率いられていた第二トルキスタン共和国は、イリ事変(英語版)の最中の1944年11月にソ連の支援によって新疆北西の三区に設立された。。トレはソビエト連邦で1946年に行方不明になり、ソ連以前の新疆トゥルク人民国家自由委員会(Sinkiang Turkic People's National Liberation Committee )の議長であったアフメトジャン・カスィミはソ連の支援の下、中国国民党の指導者である張治中と迪化での連合政府樹立の政治的合意に到達した。ETRは名目的に解散されたが、三区の自治は維持された。カスィミは連合政府の副議長になった。中華民国はイリ事変の間、ETRとソ連に対する衝突を継続し、北塔山事件(英語版)ではソ連とモンゴル人民共和国の連合軍と戦った。カザフ人リーダーオスマン・バティルとETRのカザフ人はETR勢力から離反し中華民国側へつき、ソ連とETRと戦うようになった。 1949年8月19日、中国共産党の指導者毛沢東は三区の首脳に電報を送り、北京の中国人民政治協商会議開会に出席するように招いた。8月22日、5人の首脳カスィミ、アブドゥルキリム・アバソフ、イスハクベグ・モノノフ、Luo Zhi、デレリカン・スグルバヨフらはソ連の飛行機に乗り、アルマタイで国境を越えチタへ向かっていたが、バイカル湖近郊で謎の航空事故にあい消息を絶った。9月3日、セイプディン・エズィズィなど三人のETR首脳が鉄道で北京を訪れ、エズィズィはソ連大使から航空機事故の一報を聞いており、鄧力群にその旨を伝えたが、死は公表されなかった。アズィズィと残った三区の代表者は中華人民共和国への参加に合意し、それは10月1日に決まった。他のETA首脳の死は人民解放軍による北部新疆の占領が完了する12月まで公表されず、三区の兵力(東トルキスタン共和国民族軍)は人民解放軍の軍事力として再編された。 共産主義であったETR指導者のいくらかは中国共産党への参加を拒否され、インドへ逃れそこからトルコへと向かった。
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