ヴェネツィア 1763-1794
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「ドメニコ・ドラゴネッティ」の記事における「ヴェネツィア 1763-1794」の解説
ドラゴネッティは、ヴェネツィアにて、床屋で素人音楽家だったピエトロ・ドラゴネッティとカテリーナ・カレガーリの間に誕生した。彼は、父の楽器を使い、自分からギターとコントラバスを弾きはじめた。まもなく、ヴァイオリン奏者で舞踏曲の作曲家だったドレッティが彼を見出し、市中の人前で演奏するときに彼を伴うようになった。12歳で、彼はヴェネツィアで最高のコントラバス奏者だったベリーニに師事した。ベリーニはたった11回レッスンしただけで、既にこの子には教えることが何も無いと判断した。13歳で、ドラゴネッティはヴェネツィアの喜劇オペラの首席奏者に指名された。14歳のとき、彼は聖ベネデット劇場のグランド・オペラの首席コントラバス奏者となった。 18歳位のとき、トレヴィーゾにて、彼はトマジーニのカルテットに誘われた。そして、聖マルコの代理人(procurator)のモロジーニ(Morosini)の目にとまり、サン・マルコ寺院のオーディションを受けるように薦められた。彼は、1784年に初めて応募するが、このときはアントニオ・スピネッリに敗れた。結局、彼は1787年10月13日にここに採用される。このときは、教会のコントラバス奏者5名の末席で、報酬は年に25ダカットだった。しかし、彼はすぐに首席コントラバス奏者となり、ロシア皇帝から地位を用意して招待を受けるにいたった。その招聘は断ったものの、これによって、彼の報酬は上がった。その頃には、彼は非常に有名になり、当時のコントラバス奏者としては異例のソロ演奏を行いはじめ、ヴェネツィア共和国に14人の君主が来訪した際に開催された音楽祭のディレクターに選出されるまでになった。ナポリ王妃カロリーヌは、彼のコンチェルトのひとつを特に高く評価した。 彼は、グランド・オペラの仕事でヴィチェンツァに赴いたが、そこで、当地の聖ペテロ修道院のベネディクト会の修道女から有名なガスパロ・ダ・サロ作のコントラバスを入手した。この楽器は、現在ではサン・マルコ寺院の博物館に収納されている。彼はロシア皇帝から新たな地位を提供されたが、聖マルコの代理人が報酬を50ダカット上乗せしたので、この招待も断った。聖マルコの代理人は、さらに、報酬を継続したままでロンドンの王立劇場に1年間行くことを認めた。それは3年間延長されたが、結局、ドラゴネッティはヴェネツィアがフランス支配を受けた1805年-1814年の間というごく短期間をのぞいてはヴェネツィアに帰ることはなかった。
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