ヴェネツィア 1763-1794とは? わかりやすく解説

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ヴェネツィア 1763-1794

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 22:11 UTC 版)

ドメニコ・ドラゴネッティ」の記事における「ヴェネツィア 1763-1794」の解説

ドラゴネッティは、ヴェネツィアにて、床屋素人音楽家だったピエトロ・ドラゴネッティとカテリーナ・カレガーリの間に誕生した。彼は、父の楽器使い自分からギターコントラバス弾きはじめた。まもなく、ヴァイオリン奏者舞踏曲の作曲家だったドレッティが彼を見出し市中人前演奏するときに彼を伴うようになった12歳で、彼はヴェネツィアで最高のコントラバス奏者だったベリーニ師事したベリーニはたった11レッスンしただけで、既にこの子には教えることが何も無い判断した13歳で、ドラゴネッティヴェネツィア喜劇オペラ首席奏者指名された。14歳のとき、彼は聖ベネデット劇場グランド・オペラ首席コントラバス奏者となった18歳位のとき、トレヴィーゾにて、彼はトマジーニのカルテット誘われた。そして、聖マルコ代理人(procurator)のモロジーニ(Morosini)の目にとまり、サン・マルコ寺院オーディションを受けるように薦められた。彼は、1784年初め応募するが、このときはアントニオ・スピネッリに敗れた結局、彼は1787年10月13日にここに採用される。このときは、教会コントラバス奏者5名の末席で、報酬は年に25ダカットだった。しかし、彼はすぐに首席コントラバス奏者となり、ロシア皇帝から地位用意して招待を受けるにいたった。その招聘断ったものの、これによって、彼の報酬上がったその頃には、彼は非常に有名になり、当時コントラバス奏者としては異例ソロ演奏行いはじめ、ヴェネツィア共和国に14人の君主来訪した際に開催され音楽祭ディレクター選出されるまでになったナポリ王カロリーヌは、彼のコンチェルトのひとつを特に高く評価した。 彼は、グランド・オペラ仕事ヴィチェンツァ赴いたが、そこで、当地聖ペテロ修道院ベネディクト会修道女から有名なガスパロ・ダ・サロ作のコントラバス入手した。この楽器は、現在ではサン・マルコ寺院博物館収納されている。彼はロシア皇帝から新たな地位提供されたが、聖マルコ代理人報酬50ダカット上乗せしたので、この招待断った。聖マルコ代理人は、さらに、報酬継続したままでロンドン王立劇場1年間行くことを認めた。それは3年延長されたが、結局ドラゴネッティヴェネツィアフランス支配受けた1805年-1814年の間というごく短期間のぞいてヴェネツィア帰ることはなかった。

※この「ヴェネツィア 1763-1794」の解説は、「ドメニコ・ドラゴネッティ」の解説の一部です。
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